第三章「最後の苦情」
翌々日の朝、四時五十二分。
俺はマスコンを引いた。
始発電車が、定刻通りに動き出す。
黒部老人は、いつも通りホームの先頭に立っていた。
いつも通り、俺の運転席を睨んでいた。
ただ、いつもと違うことが、ひとつだけあった。
彼の顔色が、悪い。
唇が、かすかに紫色を帯びている。
俺はそれに気づいたが、言わなかった。
乗客の体調管理は、車掌の仕事だ。
俺は運転席にいる。発車した以上、運転以外のことに気を散らしてはいけない。
それが、十三年で叩き込まれた俺の流儀だ。
第二橋梁を渡る。
「五十規制、進行」
声に出す。速度計、四十七キロ。
風が強い。橋の上を渡るとき、車体がわずかに揺れる感触が、座席越しに伝わる。
「車体動揺、許容範囲内」
いつも通りの揺れ。いつも通りの数字。
異変が起きたのは、十二駅目だった。
車内インターホンが鳴った。
俺は片手でスイッチを押した。
「運転士」
「車掌です。三号車で乗客倒れました。意識ありません」
車掌の声が、ほんの少しだけ早口になっている。
俺は瞬時に頭の中で、状況を計算した。
次の駅まで、約一分二十秒。
そこには救急車を呼べる駅員がいる。
ここで非常停止すれば、救急車が現場に到着するまで時間がかかる。
「次駅まで運行、非常通報、救急要請、駅員に手配」
「了解。次駅対応で」
俺は通常運転を継続した。
いや、わずかに加速した。
所定よりも、ほんの三秒だけ早く、十三駅目に到着するように。
駅に滑り込む。
ホームに駅員が走ってくる姿が見えた。
既に車掌が無線で連絡したのだろう。
ドアが開く。
駅員と車掌が、三号車に向かって走っていく。
倒れていたのは、黒部老人だった。
俺は運転席から、それを目撃した。
駅員が彼の脈を見ている。
車掌が無線で何かを叫んでいる。
しばらくして、サイレンの音が近づいてきた。
黒部老人は、担架で運び出された。
俺はその間も、運転席を離れなかった。
離れることはできない。
他の乗客たち、満員の通勤客たちを、目的地まで運ばなければならない。
俺はマスコンを引き、列車を発車させた。
所要時間、四分の遅延。
俺の十三年で、最大の遅延だった。
その日の終業後、運転区の助役に呼ばれた。
「高坂、聞いたか」
「黒部さんですか」
「ああ。さっき病院から連絡があった。亡くなった」
俺は短く、息を吐いた。
「そうですか」
助役は、俺の表情を見て、静かに言った。
「お前のせいじゃない。心臓発作だ。誰にも止められなかった」
「はい」
「四分の遅延も、適切な判断だった。次駅まで運んで、救急要請。マニュアル通りだ」
「はい」
俺は休憩室に戻り、長椅子に座った。
ロッカーから運転士手帳を取り出して、今日の運行記録を書いた。
「四時五十二分、所定発」
「十三駅目、所定到着、車内急病人、駅員手配」
「以降、四分遅延にて運行、終点所定到着」
その下に、俺はもう一行、書いた。
「乗客一名、死亡」
書いてから、俺はしばらく、その文字を眺めていた。
黒部老人は、毎朝俺に文句を言っていた。
今日もきっと、文句を言うつもりで、ホームに立っていた。
でも、文句を言う前に、彼の心臓は止まった。
助役が言った言葉が、頭の中でゆっくり反響していた。
お前のせいじゃない。
四分の遅延も、適切な判断だった。
マニュアル通りだ。
その通りだ、と俺は思った。
俺は何も間違えていない。
でも、俺は別のことが気になっていた。
あの瞬間、車内インターホンが鳴ったとき、俺は迷わず判断した。
次駅まで運行、駅員手配。
その判断は、車掌から告げられた「乗客」という顔のない単語に基づいたものだ。
もしあの瞬間、車掌が「黒部さんが倒れました」と言っていたら──
俺は同じ判断をしただろうか。
答えは、たぶんイエスだ。
俺は名前を聞いても、同じ判断をしただろう。
次駅まで運ぶ方が、現場で停車するより救命率が高い。
それは数字が示している。
でも、判断したあとに、心臓のあたりがざらつく感覚は、たぶん残った。
その感覚が、いま、俺の中に残っている。
俺は不思議と、悲しいとは思わなかった。
黒部老人を好きだったわけではない。
ただ、毎朝当たり前にいた人が、いなくなる。
その「当たり前の不在」が、俺にとっては、初めての経験だった。
休憩室の蛍光灯が、また一度、ジジ、と鳴った。
俺はその音を、しばらく聞いていた。
ふと、俺は財布を開けて、中から一枚の名刺を取り出した。
随分前に、黒部老人が運転席のドアの隙間から押し込んできたものだった。
「お前の運転に苦情がある場合は、ここに直接電話してこい」
名刺には、彼の自宅と思われる電話番号と、議員時代の肩書きが小さく印刷されていた。
俺はその名刺を、なぜか捨てずに財布の奥に入れていた。
苦情を受けるためではない。
ただ、捨てるタイミングがなかっただけだ。
俺は今日、その名刺を捨てた。
ゴミ箱に落ちる小さな音が、いつもより大きく聞こえた。
帰宅して、俺は布団に潜った。
明日も始発四時五十二分。
明日は、ホームの先頭に、黒部老人はもういない。
誰も俺のブレーキに文句を言わない。
誰も俺の出勤に文句を言わない。
それは、俺の朝が、わずかに静かになるということだ。
なぜか、その静けさを、俺は少しだけ寂しいと思った。
寂しいと感じる自分に、俺は驚いた。
あんなに嫌な老人だったのに。
毎朝、唾を飛ばして文句を言われて、心の中で何度殴ったかわからないのに。
それでも、いなくなると寂しい。
たぶん俺は、あの老人を、定時運行の一部として組み込んでいたのだと思う。
四時五十二分の発車のとき、ホームの先頭で文句を言う黒部老人。
彼の存在は、俺の毎朝のチェックリストの、見えない一行だった。
その一行が、消えた。
チェックリストにぽっかり空いた空白を、明日からは別の風景で埋めていかなければならない。
俺は寝返りを打った。
窓の外で、街の音が、徐々に遠のいていく。
明日も、俺は始発を走らせる。
そう思いながら、俺は眠りに落ちた。
夢の中で、俺は誰かの声を聞いた。
子供の声だった。
「電車、来た!」
その声は、明るくて、無邪気だった。
俺はその声を、夢の中でも、聞いていた。
翌朝、四時十二分。
俺は点呼を受けて、いつも通り、出勤した。
時計、整正よし。
アルコール、〇・〇〇。
免許証、よし。
すべてが、いつも通りだった。
仕業検査も、いつも通り。
パンタグラフ、台車、ブレーキ、保安装置。すべて指差喚呼で確認した。
車両基地の端で、整備班の若い検修員が、油まみれの軍手で工具箱を整理していた。
俺はその姿を一瞬眺めた。
彼もまた、誰にも気づかれない仕事をしている人間だ。
俺たちは互いに会釈だけ交わして、それぞれの持ち場に戻った。
ホームに上がる。
ホームの先頭に、黒部老人がいない。
その空白が、ホームの空気を、いつもより軽くしていた。
軽い、というよりは、薄い。
誰かがそこにいた重みが、ぽっかり消えていた。
代わりに、いつもの位置よりひとつ後ろに、若い母親と、小さな男の子が立っていた。
男の子は、たぶん三歳か四歳。
俺の運転席を、目をきらきらさせて見上げている。
母親が、男の子の手を強く握って、ホームの黄色い線の内側に立たせている。
男の子の口が動いた。声は遠くて聞こえない。
でもたぶん、こう言っている。
「電車、来た」
夢で聞いた声が、現実とぴたりと重なった気がして、俺は一瞬、息を止めた。
そんな偶然があるはずがない。
ただの錯覚だ。
俺はその子から目を離した。
車掌のホイッスルが鳴る。
ドアが閉まり、戸閉灯が点く。
俺はマスコンを握った。
「出発、進行」
いつも通り。
四時五十二分ちょうど。発車。
車輪がゆっくりと回り出す。
ホームの男の子が、母親の手の中で、小さく手を振っているのが、運転席の左後方にちらりと映った。
あの子は、今日が休日の朝だから、母親と一緒に始発に乗っているのだろうか。
それとも、何か事情があって、始発でしか移動できなかったのだろうか。
俺は数秒だけ、そんなことを考えた。
そしてすぐに、考えるのをやめた。
乗客の事情を考えるのは、運転士の仕事ではない。
その日の始発が、俺の人生の、最後の運転になるとは、俺はまだ知らなかった。




