第二章「君の仕事に意味はあるよ」
休憩室の窓の外で、空が完全に明るくなっていた。
俺は紙コップの自販機コーヒーを片手に、長椅子に座っている。
壁の時計は六時四十五分を指している。
次の乗務まで、二時間半。
その間、ただ待つ。それも仕事のうちだ。
休憩室には、湯沸かし器の唸りと、テレビの低い音と、誰かの寝息。
蛍光灯がひとつ、ジジ、と鳴って、また鳴り止んだ。
俺は運転士手帳をテーブルの上に開き、今日の運行記録を書き付けていく。
「四時五十二分、所定発」
「五時三十一分、第二橋梁、五十規制、減速、所定通過」
「六時十七分、終点所定着、停止位置誤差〇センチ」
誤差〇センチ。
その三文字を書くとき、俺の指は少しだけ強くペンを握り直す。
誤差三十センチ以内ならば、業務上、合格だ。
ゼロを目指すのは、誰にも要求されていない。
誰にも見られていない。
ただ俺だけが、ゼロにこだわる。
ふと顔を上げると、後輩の小宮が向かいの椅子に腰を下ろしていた。
二十六歳、運転士になって三年目。
まだ顔に少年の名残がある若者だ。
「先輩、おはようございます」
「ああ」
「今日も誤差ゼロですか」
「うん」
「化け物だな……」
小宮は紙コップのコーヒーをすすって、苦そうに眉を寄せた。
彼はブラックが飲めない。砂糖を二袋入れる。
そういう細かいことを、俺はなぜか覚えている。
「先輩、聞いてもいいですか」
「なに」
「先輩、運転士になって、どれくらい経つんでしたっけ」
「十三年」
「十三年。すごいですね」
「すごくないよ。長いだけだ」
「無事故無遅延、十三年」
「事故を起こさないのは、当然のことだ」
「当然って」
小宮はそこで一度、言葉を切った。
「当然のことを、毎日続けるのが、いちばん難しいんですけどね」
俺はコーヒーをすすった。
苦みが舌に広がる。
俺は黙って、もう一口飲んだ。
返事を考えていたが、適切な言葉が見つからなかった。
「先輩、覚えてますか」
「何を」
「俺が新人だった頃、先輩が一度だけ、めちゃくちゃ怒ったこと」
俺は一瞬、思い出せなかった。
俺は基本的に怒らない。怒るような場面に出くわさないように、運転している。
「忘れたよ」
「ホームで、お客さんが転びかけたとき、俺、つい、先に動いちゃったんですよ。
『大丈夫ですか!』って、運転席から飛び出して」
「ああ……」
「あのとき、先輩、こう言ったんです。
『運転士が運転席を離れるな。お前が客を助ける前に、列車が暴走したらどうする』って」
「……そんなことを言ったか」
「言いました。鬼の形相で」
「……すまん」
「いえ。あれが、いちばん勉強になりました」
小宮はコーヒーをまた一口飲んだ。
「先輩は、いつも全体を見てるんですよね。
目の前の一人を助けるんじゃなくて、列車に乗ってる全員を、安全に運ぶことを考えてる」
「……当たり前のことだよ」
「先輩、自分の仕事に意味はあるよ」
俺は顔を上げた。
「えっ」
「自分の仕事に意味はあるよって、言ったんです」
小宮はまっすぐに俺を見た。
「俺ね、運転士になるとき、人を助けたいって思ってたんですよ。消防士とか、警察官とか、医者みたいな、そういう仕事に憧れて。
でも、運転士って、ふだんは誰も助けてないように見える。
ただ、決められた線路を、決められた時間に、決められた速度で走ってる。
最初は、それでいいのかなって、悩みました」
休憩室の蛍光灯が、また一度、ジジ、と鳴った。
「でも、先輩を見てて、思うんです。
遅延を出さない、停止位置を外さない、安全確認を怠らない。
その、当たり前を、誰かがやらないと、当たり前のことは起きない。
毎日同じ時間に電車が来るって、それ、奇跡なんです。
その奇跡を、先輩が、十三年、毎日、起こしてる」
「……」
「定時で走るって、それ自体が、誰かを助けてるんですよ」
俺はコーヒーの紙コップを、少しだけ強く握った。
紙の薄い壁が、わずかに歪む。
俺は何か言おうとして、口を開いた。
でも、何も出なかった。
代わりに、俺はコーヒーを飲み干した。
冷めかけた苦みが、喉の奥にゆっくり落ちていく。
なぜすぐに頷けなかったのか、俺は自分でもわからなかった。
たぶん、嬉しかったのだと思う。
嬉しいという感情を、俺は長いこと、自分から遠ざけてきた。
仕事で嬉しいと思ってしまったら、次にミスをしたとき、自分を許せなくなる。
だから俺は、嬉しさを禁じてきた。
禁じている間に、嬉しさが何だったのか、忘れてしまった。
小宮の言葉は、その忘れていた感情に、ぽつりと小さな波紋を立てた。
でも俺は、波紋が広がる前に、それを押し戻した。
今さら、誰かに認められても、俺の十三年は変わらない。
誰にも気づかれなかったから、俺の十三年は完璧だったのだ。
誰かに気づかれてしまったら、それはどこかが間違っていたということになる。
そう、俺は信じていた。
「ありがとうな」
ようやく俺は言った。
「お前にそう言われると、悪い気はしないよ」
「先輩、悪い気はしない、って言うとき、たいてい嬉しい顔してますよ」
「そんなことはない」
「ありますって」
小宮は笑った。
俺は窓の外を見た。
ホームに通勤客が溢れ始めている。
心の中で、俺はもう一度、小宮の言葉を反芻していた。
定時で走るって、それ自体が、誰かを助けてるんですよ。
いい言葉だ、と思った。
でも、それは、お前が運転士として若いうちに信じていればいいことだ。
俺はもう、そういう言葉を、信じる年齢じゃない。
俺の仕事は、誰かを助ける仕事じゃない。
ただ、誰かを傷つけない仕事だ。
そう思っていた。
休憩室を出るとき、ふと振り返ると、小宮はまだコーヒーをすすっていた。
彼の背中に、声をかけようかと思ったが、結局やめた。
「お先に」
「お疲れさまです」
その短い挨拶だけを残して、俺は廊下に出た。
帰りの回送電車の中で、俺は窓に頭を寄せて、外を眺めていた。
通勤客が、ホームの電光掲示板を見上げている。
次の電車まで、あと二分。
その二分が、彼らの今日一日の計画を組み立てている。
会議の開始時刻、子供の登校時刻、病院の予約。
俺の運転する電車が二分遅れたら、そのうちのいくつかは崩れる。
もしかしたら、と俺は思った。
もしかしたら、小宮の言うことは、半分正しいのかもしれない。
俺は誰かを助けているのかもしれない。
ただ、その助けは、形がない。
助けた相手も、自分が助けられたと知らない。
誰にも知られない助けは、助けと呼べるのだろうか。
俺にはわからなかった。
その日の帰り道、駅前の大型スクリーンが、ニュースを流していた。
夕方の特集で、街の物流の話をしていた。
時間通りに動く電車。時間通りに動くバス。時間通りに届く宅配便。
その全部が、一秒の遅れもなく組み合わさっている。
画面の中で、コメンテーターが言った。
「日本の時間通り文化は、世界の奇跡ですよ」
奇跡。
その単語が、俺の頭の中で、小宮の言葉と重なった。
俺はコンビニでおにぎりを買って、自宅へ帰った。
部屋に戻り、靴を脱ぎ、玄関の鍵を施錠する。
「施錠よし」
誰もいない部屋で、俺は声に出した。
窓の鍵も確認する。
「窓、施錠よし」
ガスの元栓も指差確認する。
「ガス元栓、閉、よし」
誰もいない部屋に、俺の声だけが響く。
でも俺はそれを変えるつもりはなかった。
この習慣が、十三年、俺を支えてきた。
明日も同じことをやる。それで、いい。
翌日は休みだった。
俺は布団の中で、午前中いっぱい眠った。
目が覚めて、午後にコインランドリーへ行き、洗濯物を畳み、夕飯を食べ、また眠った。
明日は始発四時五十二分。同じ電車。同じ乗客。同じ黒部老人。同じ停止位置。
そう思いながら、俺は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ぼんやりと、小宮の顔が浮かんだ。
あいつ、いつか辞めるかもしれないな、と俺は思った。
あいつには夢がある。誰かを助けたいという、はっきりした夢が。
俺の隣で、定時運行を守り続けるだけの仕事に、いつまで耐えられるかわからない。
もし辞めるとしたら、止めずに送り出してやろう。
そう決めて、俺は眠った。
俺は知らなかった。
次の朝が、俺の人生の最後の朝になるということを。




