第十八章「別れ ありがとうございました」
宮殿の天井から、降り注ぐ白い光は、ゆっくりと俺の体を、薄めていった。
俺はその光の中で立っていた。
倒れる気配は、なかった。
ただ、世界が、俺を、ゆっくりと解いていく感覚だった。
ヴェルナー辺境伯が、深く頭を下げた。
「リツ殿。我が領を、救ってくださり、ありがとうございました」
「閣下」
「我が領は、これからも、定時で、運行を続けます。
あなたの教えた仕組みを、忘れません」
「ええ」
俺は軽く頷いた。
「閣下は、優しい統治者です。領民を、最後まで、置いて行かないでください」
「は」
ヴェルナーの目に、涙が、ひと粒、落ちた。
武人の、堅い顔から、まっすぐに、落ちた涙だった。
ガロンが、片膝をついた。
「リツ様、終生のお仕えを、果たせず、無念にございます」
「ガロン。お前のお仕えは、これからだ」
「は?」
「俺は、戻る。だが、線路は、残る。線路を、守るのが、お前の仕事だ。
領内の運行を、お前の手で、束ねろ」
「は!」
ガロンは深く頭を下げた。
その肩は、震えていた。
半年前、家族を失った時の彼の震えとは、違う震えだった。
それは、誰かを、見送る時の、震えだった。
ノエルが、おずおずと、進み出た。
「リ、リツ様」
「ノエル」
「私、この世界の機関学院の方で、新しい鉄路の研究を続けます。
いつかリツ様の、本当の故郷の、線路に、追いつきます」
俺は彼の頭に、軽く手を置いた。
「ノエル。お前はたぶん誰かに、似ている。誰か、と言ってもよい」
「と、申しますと?」
「俺の、後輩だった、小宮、という男に、似ている。
彼もお前のように、誰かを助けたいとはっきり言えた人間だった」
「そう、なのですか」
「うん。だから、お前は、運転士に、向いている」
ノエルは、頬を紅潮させた。
その紅潮は、若さの、紅潮だった。
俺はそれをしばらく、眺めた。
シエラが、進み出て、深く頭を、下げた。
「リツ様。あなたの御業を、私は、歌に致します。
千年、二千年、語り継ぎます」
「シエラ」
「は」
「俺の名前は、出さなくていい。
ただ、誰かが毎日、誰にも気付かれない仕事を続けているという、その事実を歌ってくれ。
その人々が、本当の、英雄だ」
シエラは、目に涙を浮かべながら頷いた。
「承知致しました」
エヴァン老師が、銀の装置を、抱えながら、進み出た。
「リツ殿。あなたの帰還の経路は、いま安定しております。
今戻れば、本来の世界の本来の時間軸に戻ることができます」
「分かりました」
「ただし戻ったあと、あなたの記憶がどうなるかは、保証できません」
「記憶」
「はい。こちらでの、半年の記憶を、保ったまま、戻れるか。
それとも、夢の記憶のように、薄まるか。
それは、あなたの、本来の世界の、状況次第です」
俺は深く頷いた。
最後にアリサが俺の前に、立った。
彼女はもう泣いていなかった。
ただ、まっすぐに、俺の顔を、見ていた。
「リツ様」
「アリサ」
「ご出立の、お時刻にございます」
その声は、彼女が、八百年の信号守の血を、すべて、引き受けた声だった。
信号守は、列車を、見送る役目を、持つ。
彼女は、いまその役目を、俺に、果たそうとしていた。
「アリサ。これを、君に、渡す」
俺は、手帳を、彼女に、差し出した。
俺の運転士手帳。
十三年の、業務記録の、すべて。
「これは、俺の、八百年の祝詞だ。君の一族の祝詞と、合わせて、保管してくれ」
「リツ様……」
彼女は、両手で、手帳を、受け取った。
手帳の上に、彼女の涙が、ぽたりと、落ちた。
「八百年、待っておりました」
「うん」
「もう、悔いは、ございません」
俺は、彼女の頭に、軽く手を、置いた。
手のひらが、彼女の髪を、すり抜けた。
もう、そこまで、薄くなっていた。
俺は最後に黒部老人を、見た。
彼は、玉座の前で立っていた。
もう、玉座には、座らないつもりらしい。
「黒部さん」
「うん」
「あなたの、毎朝の文句、もう聞けませんね」
「そうだな」
「少し、寂しいです」
「ふん」
彼は、口元を、わずかに緩めた。
毎朝のホームでは、決して、見せなかった顔だった。
「お前のブレーキ、あれは、悪くなかった。
悪くないどころか、世界一、整っていた、といま認める」
「ありがとうございます」
「お前のような運転士に、毎朝乗れたこと、本当は、幸運だったのだ。
俺はただそれを、認めるのが、嫌だっただけだ」
俺は深く頭を下げた。
黒部老人もまた、深く頭を下げた。
その所作は、毎朝のホームでは、絶対に、見られなかった所作だった。
俺の体は、もうほとんど、白い光の中に、溶けていた。
俺は最後に千人の市民の声に、もう一度耳を傾けた。
彼らは、宮殿の外で、まだ唱えていた。
「閉塞、進行よし!」
「次駅停車、ご安全に!」
「列車防護、発報無し!」
俺はその声を、自分の中に、染み込ませた。
彼らの声と、俺の十三年の朝の声が、合流していた。
俺はもう孤独な運転士では、なかった。
俺は、八百年の祝詞と千人の声と合流した、ひとりの運転士だった。
「ありがとうございました」
俺は、車内放送と、同じ口調で、低く言った。
いつもの、業務終了の、決まり文句。
その瞬間、白い光が、強くなった。
俺の意識が、ゆっくりと薄れていった。
最後に見えたのは、アリサの、まっすぐな目と、
黒部老人の、深く頭を下げた背中と、
ノエルの、紅潮した頬と、
ガロンの、片膝をついた姿勢と、
ヴェルナー辺境伯の、流す涙と、
シエラの、優しい歌声と、
エヴァン老師の、深い頷きだった。
みんな、ありがとう。
俺は、心の中で、それだけ、言った。
白い光が、俺を、すべて、包んだ。
次の瞬間、俺はもう廃都の宮殿には、いなかった。
────
暗闇。
音もない。
時間の流れも、わからない。
俺はただ、何もない場所に、漂っていた。
異世界に、目覚めた、あの最初の朝と、似ていた。
でも、今度は、戻る方向だった。
暗闇の中で、俺は自分の十三年を、もう一度思い出していた。
四千七百日近くの、毎朝。
四時十二分の点呼。
四時五十二分の発車。
黒部老人の文句。
小宮のコーヒー。
ホームの男の子。
貨物列車の警笛。
その全部が、暗闇の中で、ひとつの線路の上に、並んでいた。
その線路の上を、俺はゆっくりと歩いた。
歩きながら俺は、誰にも気付かれない毎朝をひとつずつなぞった。
なぞるたびに、その朝の重みが、俺の中で、変わっていった。
以前は、ただの、繰り返しだった。
いまはひとつひとつが、誰かを置いて行かないための祝詞だった。
俺の十三年は、無意味では、なかった。
俺はそれをようやく、自分自身に、認めた。
遠くで、何かの、機械音が、聞こえてきた。
ピッ、ピッ、ピッ、と規則的な、電子音。
病室の心電図の音だと俺は、すぐに気付いた。
俺は目を開けた。
白い天井。蛍光灯。点滴の管。酸素マスク。
病室だった。
俺は、ベッドに、寝ていた。
体は痛くない。
ただ、奇妙に重かった。
ベッドの脇に、人影が、見えた。
白衣ではない。
誰かの、知った顔だった。
「先輩、気が、ついたんですか!」
その声は、小宮だった。
「先輩、よかった、本当によかった……」
彼の目に、涙が、滲んでいた。
俺はその顔を、しばらくぼんやりと、見ていた。
「小宮……」
「先輩!」
「俺は、どうした」
「覚えてないんですか?」
「ぼんやりしてる」
「先輩、ホームで、子供を、線路から、引き上げたんですよ。
その後、貨物列車に、跳ねられて……
奇跡的に、足の骨折だけで、済みましたけど、
頭を、強く打って、三日、意識が、戻らなかったんです」
俺はゆっくりと息を吸った。
肺の奥まで、空気が、入った。
病室の、消毒液の匂い。
点滴の、ぴちょん、という音。
全部が、俺の知っている世界の、感覚だった。
三日。
俺は、こちらの世界では、三日、眠っていただけ、らしい。
でも、向こうの世界では、ひと月余りいた。
時間の流れが、違う。
でも、それはたぶん夢ではない。
俺の手のひらに、あの日の、線路の、火傷の跡が、わずかに残っている気がした。
「先輩、子供さんも、無事です」
小宮が、続けた。
「あの子のお母さん、毎日、お見舞いに、来てくれてました。
今朝も、来て、先輩の枕元で、ずっと、頭を下げてました」
「そうか」
「先輩は、英雄ですよ」
「英雄じゃ、ない」
俺は低く答えた。
「ただ、運転士として、当たり前のことを、しただけだ」
小宮は、しばらく俺を、見ていた。
それから、深く頷いた。
「先輩。先輩のその、当たり前は、世界の、奇跡なんです」
その言葉に、俺はゆっくりと目を、閉じた。
涙が、頬を、伝った。
俺はもう一度目を、開けた。
「小宮」
「はい」
「ありがとう」
「え?」
「お前が、いつか、休憩室で、言ってくれた言葉。
あの言葉、ずっと、覚えてた。
遅すぎたかもしれないけど、いまようやく、信じられる」
「先輩、何の、話ですか?」
「定時で走るって、それ自体が誰かを助けてるんですよ、って、お前、言っただろう」
「あ、はい、言いました」
「あの言葉、本当だった。今、俺はそれを知っている」
小宮は、目を、丸くした。
それから、ふっと、笑った。
「先輩、頭、強く打ったから、いつもより、素直ですね」
「そうかもしれない」
「でも、悪い気は、しません」
「うん」
俺は、視線を、ベッドの脇の、サイドテーブルに、移した。
そこに、俺の、私物が、置かれていた。
懐中時計。財布。社員証。
そして、運転士手帳。
俺は手を伸ばした。
手帳を、手に取った。
ページを、めくる。
最後のページに、俺は自分の手書きで、最後の業務記録を、書き付けていた。
「五時三十二分頃、第六駅にて、ホーム転落幼児あり。
運転士、運転席を離脱、線路に降下、幼児を救出。
以後、貨物列車との接触により、運転士、殉職」
殉職、と書いてあった。
でも、俺は、生きていた。
俺はその文字を、ゆっくりと撫でた。
線を引いて、修正しようかと、思った。
でも、しなかった。
俺は、たしかに、一度、殉職した。
そのあと、八百年の祝詞に、迎えられた。
そして、戻ってきた。
その記録を、書き換える必要は、ない。
ページの、その下に、俺は、新しい一行を、書き付けた。
「帰還。次の運行、所定通り」




