第十七章「全員で進行よし」
俺は、廃都の宮殿の窓辺で、しばらく外を、眺めていた。
城門の外で、千人の声が、まだ響いていた。
「閉塞、進行よし!」
「次駅停車、ご安全に!」
「列車防護、発報無し!」
その声に応えるように、信号機の青い光が五つ、夜明けの空に立ち昇っていた。
しかし奇妙なことに、宮殿の壁の青い光はまだ消えていなかった。
俺の声で発した「全閉塞、解除」は確かに、城門の見えない壁を消した。
でも、宮殿の中の魔法の核は、まだ生きていた。
俺の隣で、エヴァン老師が、銀の杯のような装置を、覗き込んでいた。
「リツ殿、奇妙です」
「奇妙、とは」
「閉塞王の魔法の本体は、まだ解除されておりません。
ただ、外向きの効果が、止まっただけです」
「と、申しますと?」
「奴の心の中で、まだ何かが、解けていないのです」
俺は、玉座の方を、振り返った。
黒部老人は、玉座の前の床に、両膝をついていた。
涙は、止まっていた。
でも、彼の体は、白く、薄く、半透明に、なり始めていた。
「黒部さん!?」
俺は、慌てて、駆け寄った。
「黒部さん、体が……」
「ああ……分かっている」
彼は低く言った。
「俺は、消えるのだ。たぶん、これで、いいのだろう」
「待ってください。なぜ、消える」
「俺の魂は、本来、八百年前に、この世界に、引き寄せられた。
それを、無理やり、止めて、君臨してきた。
その無理が、いま解けたのだ。
俺は、本来、止まる魂だった。止まる魂が、止まる場所に、戻る。それだけだ」
俺は彼の腕を、掴もうとした。
でも、腕は、薄く、半透明だった。
触ろうとすると、指が、すり抜けた。
「黒部さん!」
「運転士、いいんだ」
「いいわけ、あるか!」
俺は、自分でも、驚くほど、強い声を、出した。
「あなたは、まだ待たれている。
アリサの一族が、八百年、あなたを、待っていた。
待たれた魂は、消えるべきじゃない」
「だが、俺は……」
「黒部さん、進行同意は解除じゃない。次に進むという意思の表明です」
俺は、手帳を、開いた。
ページを、めくった。
線路用語の、ひとつひとつを、ゆっくりと声に、出した。
「停止信号、現示」
黒部老人の体が、わずかに濃くなった。
「待避線、案内」
彼の輪郭が、少し、しっかりした。
「次閉塞、進入確認」
彼の目が、ゆっくりと開いた。
「進行同意、現示」
彼の頬に、血の色が、戻り始めた。
「黒部さん、止まる権利を、認めましょう。
あなたは、止まったまま、生きていい。
ただ、消えなくて、いい」
俺は、自分で、線路の用語を、奴の心の中に、敷き直していた。
奴の魔法は、外向きの呪いの形で、世界を、止めようとしていた。
でも、本来の閉塞信号は、止まる人を、ただ安全に、止めておくための仕組みだった。
俺はそのことを、奴の魂にひとつずつ、言葉で確認させていった。
黒部老人は、ゆっくりと立ち上がった。
体は、もう薄くなっていなかった。
ただ、彼の目から、涙が、まだぽたぽたと、落ち続けていた。
その時、宮殿の扉が、外から、強く押し開かれた。
千人の声が、ここまで、届いた。
ヴェルナー辺境伯が、走り込んできた。
ガロンが、続いた。
ノエルも、双子の槍兵も、シエラも、エヴァン老師も、全員が宮殿の中に入ってきた。
「リツ殿!」
「リツ様!」
「ご無事で!」
全員の声が、宮殿の壁に、反響した。
俺は、彼らに、軽く手を上げた。
「無事だ」
「閉塞王は」
「もう、閉塞王ではない。ただの、黒部さん、だ」
千人の市民の声が、扉の外から、まだ聞こえていた。
「閉塞、進行よし!」
「次駅停車、ご安全に!」
「列車防護、発報無し!」
俺はその声を、耳に、入れた。
千人の声は、夜明けの空気を、震わせていた。
その震えが、宮殿の壁を、抜けて、玉座の前まで、届いていた。
黒部老人は、その声を、しばらく聞いていた。
彼の頬の涙が、またぽたぽたと、落ちた。
「俺を、待ってくれている……世界が、俺を、待ってくれている……」
俺は深く頷いた。
「ええ」
「俺は……俺はもう一度進んで、いいのか」
「進んでも、いい。止まっていても、いい。
どちらでも、世界は、あなたを、置いて行かない。
それが、本来の、閉塞の意味です」
黒部老人は深く息を、吐いた。
その息は、長く深く八百年の重みを、押し出すような、息だった。
彼は、ゆっくりと玉座を、降りた。
俺の前で、深く頭を下げた。
「高坂律よ。お前を、毎朝、いびって、すまなかった」
「黒部さん」
「いや、聞いてくれ。毎朝、お前のブレーキに文句を言っていたのは、お前のブレーキが雑だったからじゃない。
お前のブレーキが、あまりに、整っていたからだ。
俺の人生のブレーキとはあまりに違って整っていたから、俺はそれが許せなかった」
俺は黙って彼の言葉を、聞いていた。
「俺は、お前に、嫉妬していた。
毎朝、定時で走れる、お前の十三年に。
俺の止まり続けた人生に対する無声の批判を、お前の運転に勝手に見ていた」
俺は深く頭を下げた。
「俺もまた、あなたをただの面倒な乗客として処理していました。
あなたの内側を、見ようとしませんでした。
失礼を、しました」
黒部老人は、ゆっくりと首を、振った。
「失礼じゃない。お前は運転士として、職務を果たしていただけだ。
俺が、勝手に、お前を、敵にしていたのだ」
彼は、顔を上げた。
その顔から、毎朝のホームでの、攻撃的な表情は、消えていた。
代わりにただの、疲れた、六十二歳の、老人の顔が、あった。
俺はその顔を、初めて、まっすぐに、見た。
毎朝ホームで俺の運転席を睨んでいた、あの目の中に、こんなに深い悲しみが隠されていたとは。
俺は、十三年、それに、気付かなかった。
「黒部さん、これから、どうしますか」
「分からない。ただ、ここに、しばらくいることに、する。
この世界の人々が、八百年、俺のような魂を、待っていたという。
ならば、俺はその待たれた魂として、ここで、暮らす。
それがたぶん俺の、新しい役目だ」
俺は深く頷いた。
その時、アリサが俺の隣に、歩み寄った。
「リツ様……」
「アリサ。無事で、よかった」
「は、はい」
彼女の目に、また涙が、浮かんでいた。
「リツ様、お礼を、申し上げる、暇も、ございません」
「礼は、いらない」
「いいえ、いいえ、それでは、わたくしの一族が八百年待ってきた意味が」
「だったら、君の祝詞を、続けてくれ。それが、いちばんの、礼だ」
「はい!」
俺は、彼女の頭に、軽く手を置いた。
彼女の髪は、思ったより、ずっと、柔らかかった。
宮殿の天井から、薄い、白い光が、降り注いだ。
光の中で、俺の体が、わずかに揺らいだ。
ヴェルナーが、最初に、それに、気付いた。
「リツ殿、お、お体が」
「ああ、これは……」
俺は自分の手を、見た。
手のひらが、薄く、半透明に、なっていた。
エヴァン老師が、銀の装置を、慌てて、覗き込んだ。
「リツ殿。閉塞王の魔法が、解除されたことで、
地脈の歪みが、修正されました。
あなたの魂もまた、本来の世界に、戻ろうとしています」
俺はゆっくりと息を、吐いた。
「そう、ですか」
「お、お止めしましょうか」
「いえ、結構です」
俺は低く答えた。
「俺は、本来、別の世界の運転士です。
帰る場所が、ある」
黒部老人が、俺の方を、見た。
「運転士、お前は、戻るのか」
「ええ」
「俺は、戻らない。戻る場所が、もうないからな」
「黒部さん」
「お前は、戻れ。お前の世界の、お前のホームに、戻れ。
そして、定時で、走り続けろ。
誰かを、置いて行かない、お前のやり方で」
俺は深く頷いた。
黒部老人は、玉座の脇から、何かを、取り出した。
黒い、革表紙の、小さな手帳。
俺の運転士手帳と、似た形だった。
「これは、俺が、生前、議員として、毎日、書き付けていた日誌だ。
お前の手帳と、対になる。
持って帰ってくれ」
俺はその手帳を、受け取った。
手のひらの上で、その手帳の重みは思ったよりずっと軽かった。
毎日書き付けても、こんなに軽い記録になる人生もあるのだ。
俺の手帳の重みと、彼の手帳の軽さが、釣り合うことがたぶん世界の意味だった。
千人の声はまだ、扉の外で、響いていた。
俺はその声に、もう一度耳を、傾けた。
「閉塞、進行よし!」
「次駅停車、ご安全に!」
「列車防護、発報無し!」
俺はその声に、応えるように、低く声を、出した。
「次の閉塞、進行よし」
俺の声は、千人の声と、合流した。
その合流の瞬間、俺の半透明な手のひらが、もう一段、薄くなった。
もう、長くは、ない。
俺はそれを自分の体で、知った。




