第十六章「閉塞は安全のためにある」
夜明け。空が、薄く、紅く、染まり始めた。
俺は、線路の脇に立っていた。
背後には、五百人の人足と、辺境伯の兵と、王都から駆けつけた市民が、五百人。
合わせて、一千人が、線路の両側に、整列していた。
シエラが、王都から、市民を集めて、戻ってきていた。
彼らは、信号守の祝詞を、暗唱していた。
子供たちまで、その言葉を、覚えていた。
「閉塞、進行よし」
「次駅停車、ご安全に」
「列車防護、発報無し」
俺は、信号機の前に、立った。
第一信号機。鉄でできた、頑丈な信号機。
頂部の銀の板に、円と十字が、刻まれている。
「現示確認」
俺は、声に出した。
信号機の青い光が、灯った。
ノエルが、第二信号機の前に立っていた。
彼は、緊張のあまり、青ざめていた。
「ノエル、現示確認」
「げ、現示、確認します!」
彼の声は、少し裏返った。
でも、第二信号機が、灯った。
第三信号機の前には、ガロン。
第四信号機の前には、ヴェルナー辺境伯。
第五信号機の前には、エヴァン老師。
全員が、声に出した。
「現示確認」
五台の信号機が、夜明けの光の中で、青く、灯った。
俺は、台車の脇に、歩み寄った。
台車には、双子の槍兵の片方が、乗っていた。
「双子、出発進行」
「は!」
台車が、ゆっくりと走り出した。
線路の上を、ことこと、と規則的な音を立てて、進んでいく。
台車が、第二信号機を、通過する。
第二信号機の現示が、進行から、停止に、変わる。
ノエルが、声を出した。
「第二閉塞、進入確認。停止信号、現示」
その声で、第二信号機の青い光が、赤に、変わった。
台車は、第三信号機の前で、一時停車した。
ガロンが、声を出した。
「第三閉塞、安全確認。進行信号、現示」
第三信号機が、青に、灯った。
台車が、再び、走り出した。
その様子を、廃都の城門の、向こう側で、誰かが、見ていた。
俺はそれを感じた。
黒部老人。
彼は、城門の中から、目を凝らして、こちらを、見ていた。
台車が、第五信号機の手前まで、進んだ。
その時。
城門の見えない壁が、ぴしり、と揺らいだ。
「リツ様!」
ガロンが、叫んだ。
「壁が、薄くなって、おります!」
俺は頷いた。
「予定通りだ。
奴は、いま自分の魔法と、本物の鉄路の運行が、ぶつかるのを、目撃している」
台車が、第五信号機の前で、停車した。
エヴァン老師が、声を出した。
「第五閉塞、安全確認。最終確認。
全閉塞、進行よし」
五台の信号機の、青い光が、いっせいに、強くなった。
俺は、千人の市民に、合図を、送った。
千人が、いっせいに、声を出した。
「閉塞、進行よし!」
「次駅停車、ご安全に!」
「列車防護、発報無し!」
千人の声が、夜明けの山道に、響いた。
その瞬間。
城門の見えない壁が、ぴしりと、割れた。
俺は走った。
ガロンが、ついてきた。
双子の槍兵が、台車を、降りて、ついてきた。
城門の中に、入る。
廃都の街路が、朝日に、照らされていた。
昨日と、同じ、保存された街並み。
でも、何かが、違っていた。
石畳の隙間から、緑が、芽吹いていた。
時間が、戻り始めていた。
中央の宮殿に向かって、俺たちは走った。
宮殿の扉は、半ば開いていた。
俺はその隙間から、中を、覗いた。
玉座の前に、アリサが立っていた。
縛られていなかった。
彼女は、自分の意志で立っていた。
胸の前で、両手を組み、目を閉じて、祝詞を、唱えていた。
「閉塞、進行よし。
次駅停車、ご安全に。
列車防護、発報無し」
その声は低く、しかし、はっきりしていた。
彼女の声に、応えるように、宮殿の壁から、薄い銀の光が、にじみ出ていた。
玉座の上で、黒部老人が、両手で、頭を、抱えていた。
彼の口から、低い、呻き声が、漏れていた。
「やめろ……やめろ、その祝詞……」
俺は、宮殿の中に、踏み入った。
俺の足音に、彼が、顔を上げた。
俺の目を、見た。
「運転士……お前か」
「黒部さん」
「俺は、お前が、嫌いだった」
「知っています」
「毎朝、定時で走っていた、お前の顔を、見るのが、嫌いだった。
お前を見ていると、自分がいかに世界についていけていないか、思い知らされた」
彼の声は震えていた。
怒りでも、憎しみでもない。
悲しみだった。
俺はしばらく玉座の段の前で、止まっていた。
彼の言葉は、痛みを伴って、俺の胸に、沈んだ。
俺は、彼を、嫌いだった。
毎朝、文句を言われて、心の中で、何度も殴った。
でも、彼の口から、彼の側の苦しみを聞かされたのは、今が、初めてだった。
俺は自分のホームから、彼の側を、見ようとしてこなかった。
俺は、運転席の窓越しに、彼を、ただの「うるさい乗客」として、処理していた。
処理することで、自分の業務を、清潔に、保ってきた。
その清潔さはたぶん薄情さの、別名だった。
俺は、玉座の前で、立ち止まった。
「黒部さん、閉塞は、止めるための仕組みじゃ、ありません」
「黙れ……」
「閉塞は、安全に、進ませるための、仕組みです。
誰かが進めない区間に来た時、信号機がその人を待たせる。
待たせて、安全を、確認してから、進ませる。
そういう、仕組みです」
黒部老人は、頭を、抱えたまま、低く唸った。
「俺を、待ってくれた者など、いなかった……」
「黒部さん」
「町の流れに、ついて行けなかった俺を、誰も、待ってくれなかった。
父親も、町の人々も、誰も、俺を、置いていった。
俺だけが、立ち止まった。
誰も、それに、気付かなかった」
俺は、しゃがみ込んだ。
玉座の段の下で、黒部老人と、目線を、合わせた。
「黒部さん。閉塞信号は、待たせるためにあります。
誰かを、置いていかないために、待たせる。
全員が、揃ってから、進む。
それが、閉塞の、本来の意味です」
黒部老人の目が、見開かれた。
「待たせる、ために?」
「ええ。あなたが、止まりたいと思った時、本来なら、世界が、あなたを待つべきだったんです。
誰かが、信号を、停止に、現示するべきだった。
あなたが、再び動けるまで、世界は、停止していて、よかった。
それが、本当の、閉塞です」
彼の頬を、涙が、伝った。
「俺は、誰にも、待ってもらえなかった……」
「いいえ」
俺は、低く言った。
「アリサの一族が、八百年、あなたのような人を、待っていました。
彼女たちの祝詞は本来、置いて行かれた人を世界がもう一度迎え入れるための祝詞でした」
アリサが、黒部老人の前に、歩み寄った。
彼女は、玉座の前で、深く頭を下げた。
「閉塞王、いえ、黒部様。
わたくしの一族の祝詞、八百年、捧げ続けて参りました。
あなた様のような、流れに、置いて行かれた魂のために」
黒部老人の体が、震えた。
彼は、玉座の上で、わずかに崩れた。
崩れながら、口の中で、何度か、繰り返した。
「俺を、待ってくれた……俺を、待ってくれた……」
彼の手のひらが、震えていた。
その手のひらは、俺の見覚えのある、皺の深い手だった。
毎朝、ホームの先頭で、俺の運転席のドアを、ばんばん叩いていた、あの手だった。
その手が、いま自分の頬の涙を、ぬぐっていた。
俺はその手を、見ながら、奇妙なほど、静かな気持ちだった。
憎しみは、もうなかった。
たぶん最初から、なかった。
俺は、彼を、ただ面倒な乗客として、処理していただけだ。
彼の側の、痛みを、俺は、視界に、入れていなかった。
いま、こうして、視界に入れて、初めて俺は彼の同郷者になった。
同じ世界から来た者として、彼の傷に、向き合わなければ、ならない。
黒部老人は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
その背中は、前世で、ホームに立っていた時より、わずかに小さく見えた。
「運転士……いや、高坂律よ」
「はい」
「俺は、世界全部を、止めようとしていた。
俺だけが、置いて行かれていることに、世界が気付くまで、止めようとしていた。
でも、それは、間違っていた。
止めるべきだったのは、世界じゃない。
俺自身の止まる権利を、誰かに認めてもらう。それだけでよかった」
「ええ」
「俺の、八百年は、長すぎた」
彼は深く息を吐いた。
「お前の十三年はたった十三年だ。だが俺の八百年と釣り合う」
俺は、何も、答えなかった。
答えるべき言葉が、見つからなかった。
俺は彼の前で立ち上がった。
手帳を、開いた。
最後のページに、俺は、声に出して、書き付けた。
「閉塞王、進行同意。
全閉塞、解除」
その瞬間、宮殿の壁が、薄く、青い光に、包まれた。
光は、ゆっくりと外へ、広がっていった。
城門の見えない壁が、完全に、消えた。
北の街道が、半年ぶりに、開通した。
俺は、廃都の窓から、外を、見た。
遠くで、五百人の人足と辺境伯の兵と王都の市民、千人の声が空に響いていた。
「閉塞、進行よし!」
その声に応えるように、信号機の青い光がいっせいに、夜明けの空に立ち昇っていた。




