第十五章「運転士手帳の祝詞」
その夜、俺は、仮本営の天幕で、眠れずに座っていた。
昼間、線路の再敷設は、八割方、進んでいた。
石と鉄で組まれた線路は、初日のものより、ずっと頑丈だった。
信号機も、今度は五台、街道の各所に、据えられた。
全員が、夜更けまで、働いていた。
俺は、彼らに、休めと命じた。
明日、また長い一日になる。
俺だけは、しかし、眠れなかった。
頭の中で、明日の手順を、何度も繰り返した。
でも、ひとつだけ、欠けているものが、あった。
信号守の祝詞を、奴の城門の中で、誰が、唱えるのか。
アリサが、解放されれば、もちろん彼女が唱える。
しかし、解放されなかったら。
奴に、彼女を、解放するつもりが、本当に、あるのか。
その保証は、ない。
俺は、手帳を、開いた。
ろうそくの炎の下で、ページを、めくっていった。
最初のページから、最後のページまで。
俺はそれをただ、見ていた。
最初のページ、十三年前の入社の日。
「四時十二分、出勤。点呼受け。当務助役より、本日の運用、伝達」
その日も、俺は、声を出して、復唱していたはずだ。
「免許証、よし。時刻表、よし」
俺はその文字を、声に出した。
めくる。
二日目。同じ。三日目。同じ。
毎朝、毎朝、俺は、同じ言葉を、書き付けていた。
俺は、手帳を、止めた。
手が、震えた。
ページの、ひとつひとつが、祝詞だった。
俺はそれまで、それをただの業務記録として書き付けてきた。
でも、十三年。
四千七百日近く。
俺は、毎朝、同じ言葉を、声に出し、文字に、書き付けてきた。
信号守、アリサの一族は、八百年、それを、続けてきた。
彼女たちの祝詞と、俺の業務記録は、同じ言葉だった。
ただ、形が、違った。
俺はそれを紙に、書いていた。
彼女たちは、それを、口で、唱えていた。
どちらも、同じ祈りだった。
俺は、手帳を、両手で、握った。
涙が、ぽつりと、ページの上に、落ちた。
驚いて、慌てて、目元を、拭った。
俺は、自分で、自分の十三年を、軽んじてきた。
俺がやらなくても、列車は走る。
誰かが、代わりに走らせる。
そう、思っていた。
でも、違った。
俺の十三年の毎日の、誰にも気づかれない業務記録のひとつひとつが、
この世界の、信号守の祝詞と、同じ意味を、持っていた。
俺の十三年のひとつひとつが、世界の流れを保つ祈りだった。
誰にも気づかれなくても、毎日、続ける。
その繰り返しが、八百年で、文明を、支えるほどの、力に、なる。
俺はしばらくろうそくの炎を、見ていた。
炎が、揺れた。
その揺れの中に、誰かの声が、聞こえた気がした。
小宮の声だった。
「定時で走るって、それ自体が、誰かを、助けてるんですよ」
あの日、休憩室で、俺に、言ってくれた言葉。
俺はそれをその時は、信じなかった。
信じる年齢では、ないと、思っていた。
でも、いま俺は、信じる。
遅すぎたかも、しれない。
でも、信じる。
俺は、手帳の、新しいページを、開いた。
そこに、俺は、書き付けた。
「俺の十三年は、祝詞だった。
俺は、運転士であり、信号守でも、あった」
書き終えた瞬間、ろうそくの炎が、ぐらりと揺れた。
炎の青い部分が、強くなった。
それは、線路の脇の、信号機の青い光と、同じ色だった。
俺は立ち上がった。
天幕の外に出た。
夜空には、星が、瞬いていた。
北の山頂、廃都の中で、ろうそくの光が、また揺れていた。
二度。三度。
彼女は、まだ祈り続けていた。
俺は、手帳を、胸に当てた。
俺の十三年が、彼女の、八百年と、繋がる。
それは、明日、廃都の前で、奴の魔法と、ぶつかる。
俺は深く息を吸った。
冷たい空気が、肺の奥まで、入った。
「次の閉塞、進行よし」
俺は、声に出した。
その瞬間、線路の脇の五台の信号機がいっせいに青く光った。
まだ完成していない、最後の二台までも、薄く、青く、光った。
夜の山道に、青い光の筋が、五箇所、灯った。
ガロンが、慌てて、駆けつけた。
「リツ様!信号機が、勝手に、灯っております!」
「いや、勝手にじゃない」
俺は、低く言った。
「俺の声に、応えただけだ」
ガロンは、目を見開いた。
「リツ様、それは、つまり……」
「ガロン。明日、彼女が解放されなくても、俺たちは、戦える。
俺の声と、信号機の光と、複数の信号守の祝詞が揃えば、奴の魔法は解除できる」
「で、では、リツ様……」
「俺自身も、信号守だった。八百年の血ではないが、十三年の習慣を、持っている。
その十三年はたぶん信号守の血と、同じ重みが、ある」
ガロンは深く頭を下げた。
「明日、御供に、参ります」
「ああ。頼む」
ガロンが去ったあと、俺はしばらく夜空を見上げていた。
星が、ひとつだけ、いつもより、強く光っていた。
その星は、北極星の方角ではなく、北西の、廃都ヘイソク城の方角に、あった。
たぶん星座の名前を、俺は知らない。
でも、その星を、これからずっと、覚えていようと思った。
これから何があっても、その星は俺の中で、信号機の青い光と同じ意味を持つ。
俺はもう一度手帳を、開いた。
最初のページから、一枚一枚、ゆっくりとめくった。
四千七百日近い、業務記録。
その全部に、俺の手書きの、同じ言葉が、繰り返されていた。
「免許証、よし」
「時刻表、よし」
「合図灯、よし」
「出発、進行」
「停止位置、誤差ゼロ」
どれも、ただの、業務記録だった。
でも、それを、いまの俺は祝詞として、読み返すことができた。
俺の十三年の朝のひとつひとつが、世界のどこかで、誰かの定時運行の流れを保っていた。
俺の知らない誰かが、俺の毎朝の祝詞のおかげで時間通りに出勤し、子供を保育園に送り、病院に間に合い、生き延びていた。
その、誰にも気づかれない、流れの維持。
それを、俺は、十三年、続けてきた。
手帳の最後の方に、貨物列車に跳ねられる前日の記録が、あった。
「四時五十二分、所定発」
「停止位置、誤差ゼロ」
「業務終了。次回、明後日、五時十二分」
その「明後日、五時十二分」は、永遠に、来なかった。
俺はその朝、男の子を救って、死んだ。
手帳には、その朝の記録は、書かれていなかった。
書く時間が、なかった。
俺は、ペンを取った。
いまさらだが、空白のページに、俺はその朝の記録を、書き付けた。
「五時三十二分頃、第六駅にて、ホーム転落幼児あり。
運転士、運転席を離脱、線路に降下、幼児を救出。
以後、貨物列車との接触により、運転士、殉職」
書きながら、俺は自分の死を、初めて、自分で、認めた。
書き終えた瞬間、線路の脇の信号機がふっともう一段、強く光った。
俺は、振り向いた。
五台の信号機の、青い光が、夜空に、十字の形に、伸びていた。
その光に向かって、俺はふともう一度廃都の方角に、声を投げた。
「アリサ。明日、迎えに行く。生きていてくれ」
その声に、応えるように、廃都のろうそくの光が、ゆっくりと三度、瞬いた。
二度の応答ではなく、三度の、応答。
三度目はたぶん、彼女の、決意だった。
明日まで、生きる、という、決意。
俺は頷いた。
夜風が、頬を、撫でた。
頬が、わずかに濡れていた。
俺はそれを拭わなかった。
明日、運行が、始まる。
俺の、十三年の祝詞が、八百年の祝詞と、合流する。
その合流地点で、奴の論理は、揺らぐ。
揺らがせる。
俺はそれを運転士の、最後の責任として、引き受けた。
俺は、天幕に、戻った。
毛布を、広げ、その上に、横たわった。
目を閉じても、すぐには、眠れなかった。
でも、不思議と、心は、静かだった。
昼間、線路が焼け落ちた時の、あの動揺が、もう消えていた。
代わりにある種の、確信が、胸の奥に、灯っていた。
俺はたぶん間違っていなかった。
黒部老人も、間違っていない部分が、ある。
彼の、止まりたかった、という気持ち自体は、責められるものではない。
ただ、止まりたいと願う者を、世界全部を止めて救おうとした、その方法が、間違っていた。
止まりたい者には、止まれる場所を、用意する。
それが、本来の、閉塞信号の役目だ。
動けない区間で、列車を、無理に動かさない。
動かないことが、安全につながる、その瞬間がある。
全部を動かすのが正しいのではなく、動くべき時に動き、止まるべき時に止まる。
その判断を、複数の人間が、信号でやり取りする。
それが、本当の、鉄路の意味だ。
俺はその意味を、明日、奴に、見せる。
言葉で、ではない。
目の前で、台車を走らせ、信号機を切り替え、複数の人間が祝詞を唱える、その全体で、見せる。
奴の中の、止まりたかった少年も、その光景を、目撃するはずだ。
目撃した瞬間、奴は、自分を、許せるかもしれない。
俺はようやくゆっくりと、目を閉じた。
まぶたの裏に、信号機の青い光が、五つ、灯っていた。




