第十九章「終着駅 四時五十二分」
退院までに、二週間、かかった。
足の骨折は、思っていたより、軽かった。
頭の検査も、異常は、出なかった。
医者は、首を、傾げた。
「貨物列車に跳ねられて骨折と打撲だけというのは、奇跡ですね」
「そうかもしれません」
「再発する後遺症もないと思いますが、念のため、しばらくは自宅で安静に」
俺は頷いた。
退院の日、病院の前まで、迎えに来てくれたのは、小宮だった。
他には、誰も、いなかった。
俺には、家族が、いない。
親は、十年前に、他界している。
兄弟は、いない。
付き合っている人も、いない。
俺の人生は、運転士として始まり、運転士として、続いていた。
「先輩、家まで、送ります」
「ありがとうな」
小宮の車の助手席に、俺は、乗り込んだ。
病院の前を出る時、ふとロビーの端に、若い母親と男の子の姿が見えた。
あの、ホームから、引き上げた、男の子だった。
彼は、母親の手を、しっかり、握って、俺に、手を、振っていた。
俺は、車の窓から、軽く手を、上げた。
男の子の口が、動いた。
「ありがとう」と、言っているように、見えた。
車が、走り出した。
俺はしばらくフロントガラス越しの景色を、眺めていた。
通勤客の、急ぎ足。
信号待ちの、自転車。
走り抜ける、宅配便のトラック。
全部が、定時で、動いていた。
その全部に、誰かの運転士手帳の四千七百日近い記録が関わっていた。
俺の手帳だけじゃ、ない。
全国の運転士の、何千何万の手帳が、この定時で動く社会を組み立てていた。
俺はそれを初めて、本当に、理解した。
「先輩、復帰、いつ、しますか」
小宮が、運転しながら、訊いた。
「来月の、中頃には、戻れると、医者が」
「そうですか」
「お前は、どうしてた、俺がいない間」
「先輩の、行路を、代わりに走ってました」
「悪かったな」
「いえ。先輩のいつもの停止位置誤差ゼロを目指して走りましたけど、ぜんぜん達しません」
「達さなくていいよ。お前は、お前のやり方で、走れ」
小宮は、ハンドルを、握りながら頷いた。
数日後、俺は、運転区へ、軽い挨拶に、行った。
助役が、俺を、見て、目を、丸くした。
「高坂、戻ったか」
「ええ。来月から、復帰します」
「あの黒部のじいさん、あんたが入院してから、お見舞いに、来てたんだ」
「黒部?」
俺は息を吸った。
黒部老人は、死んでいるはずだった。
貨物列車に俺が跳ねられた、その前に心臓発作で亡くなった。
俺は、助役に、訊いた。
「黒部さん、生きてる、んですか?」
「ああ、生きてるよ。先週、家族と一緒に、お見舞いに来た」
「家族?」
「ああ。あの人、家族と、長年、口を聞いてなかったらしいけど、
あんたが入院した日に家族から長い手紙が届いたらしくて、
それで、和解したんだって」
俺はしばらく立ち尽くした。
その日というのは、たぶん俺が向こうの世界で、彼の魔法を解除した日だ。
時間軸の関係は、わからない。
でも、何かが、繋がっていると俺は、感じた。
翌日、俺は、黒部老人の自宅に、お礼に、行った。
住所は、社員名簿の、苦情記録から、調べた。
古い住宅街の、木造の家。
玄関先で、彼が、迎えてくれた。
「おう、運転士か」
「黒部さん、お元気で」
「うん。あんたが、入院した日にな、
なんか、おかしな夢を、見たんだよ」
「夢、ですか」
「ああ。雪の山の上の、廃墟の城の、玉座の上に、座ってた」
「……」
「お前と、若い娘っ子が、玉座の前で、なんか、訴えてた。
俺は、頭を、抱えてた。涙、流してた」
「黒部さん」
「夢の中で、お前が、こう、言ったんだ。
閉塞は、待たせるためにある、って。
俺、その時、ようやく、自分が、ずっと、
誰かに、待ってもらいたかったんだ、って、気付いたんだよ」
俺は深く頷いた。
「夢の中で、息子に、長い手紙を、書いた。
目が覚めて、本当に、書いた。
何十年も、絶縁状態だった息子から、返事が、来てな。
いま、孫まで、紹介された」
「よかったですね」
「ああ、よかった」
黒部老人は、顔を、ほころばせた。
それは、毎朝のホームでは、見たことのない笑顔だった。
「運転士よ。あんたに、これを、渡しとく」
彼は、家の中から、何かを、持ってきた。
黒い、革表紙の、小さな手帳。
「俺の議員時代の日誌だ。なんか夢の中で、お前に渡したような気がしてな。
目が覚めても、お前に、渡さないと、いけない気が、して」
俺はその手帳を、両手で、受け取った。
手のひらの上で、その手帳の重みは、夢で受け取った時と、同じだった。
「ありがとうございます」
「いや、こちらこそ、だ」
黒部老人は深く頭を下げた。
毎朝のホームでは、絶対に、見られなかった所作だった。
俺は、玄関先で、もう一度頭を下げて、彼の家を、後にした。
帰り道、夕陽が、住宅街に、落ちかけていた。
俺は、上着のポケットの中で、彼の手帳を、握った。
俺の運転士手帳と、彼の議員日誌。
二つ、合わせて、ようやく、一人分の、人生に、なる気がした。
復帰の日が来た。
俺は、四時十二分に、運転区に、出勤した。
点呼台に、いつも通り、立った。
「高坂律、出勤」
「健康状態」
「良好」
「アルコール検査」
息を吹き込む。〇・〇〇。
「異常なし」
助役が、俺の顔を、見て、軽く頷いた。
「お帰り」
「ただいま戻りました」
点呼の後、いつも通り、仕業検査をした。
パンタグラフのすり板、よし。
台車枠、亀裂なし、よし。
保安装置、機能、よし。
全部、声に出して、指で差した。
ホームに、上がった。
四時三十分。改札が、開いた。
乗客が、ぽつぽつと、並び始めた。
ホームの先頭の、いつもの位置に、誰かが立っていた。
黒部老人、ではない。
彼はもう毎朝、文句を言いには、来ない。
代わりに孫らしき、小学生の男の子が立っていた。
その隣に、黒部老人本人も立っていた。
ただ、運転席に、文句を言うためでは、なかった。
彼は、孫を、肩車していた。
孫が、俺の運転席を、目を輝かせて、見ていた。
「電車来た!」
その声が、俺の耳に、届いた。
俺は、彼らに、軽く頭を、下げた。
黒部老人もまた、軽く頭を、下げ返した。
言葉は、交わさなかった。
交わす必要は、なかった。
四時五十一分四十秒。
車掌から、ブザーが、一発、長く鳴った。
ドアが閉まった。
戸閉灯が、点いた。
「戸閉、点灯よし」
俺は、ホームの先を、見た。
出発信号機。
青、進行を、示している。
「次の閉塞、進行よし」
俺は、声に、出した。
その声は、十三年、毎朝、唱えてきた、同じ言葉だった。
でもいまの俺の声には、八百年の祝詞と、千人の市民の声と、
アリサの一族の祈りと、黒部老人の和解と、
ホームから救った男の子の生命と、小宮の信頼と、
そして、俺自身の、十三年の毎朝が、全部、合流していた。
マスコンを、手前に、引いた。
モーターが、低く唸った。
車体が、静かに動き出した。
四時五十二分、ちょうど。
発車。
窓の外で、空が、薄く、白み始めていた。
ホームを、離れていく。
黒部老人と、孫が、手を、振っていた。
俺は、運転席で、軽く頭を下げた。
誰にも気付かれない、小さな所作だった。
でも、それで、いい。
俺の仕事は、誰にも気付かれないことの中に、ある。
誰にも気付かれないことの中に、八百年の祝詞が、ある。
誰にも気付かれないことの中に、千人の声が、ある。
誰にも気付かれないことの中に、世界が、ある。
俺は、いつもの線路を走った。
いつもの停止位置目標に、誤差ゼロで、停めた。
いつもの定時で、終点に、着いた。
業務終了の、車内放送のスイッチを、入れた。
俺は、いつもの定型句を、口に、した。
「本日も、ご利用、ありがとうございました」
誰も、拍手しなかった。
誰も、気付かなかった。
黒部老人の孫が、ホームの端から、また手を、振っていた。
俺は、運転席の窓越しに、軽く手を、上げた。
車内点検を、終えた。
忘れ物、なし。
車内、異状、なし。
「車内点検、よし」
誰もいない車内に、俺の声だけが、響いた。
でも、俺はもう孤独な運転士では、なかった。
俺の声に、八百年の祝詞が、合流している。
俺の声に、千人の祈りが、合流している。
俺の声に、誰かの、ありがとう、が、混じっている。
次の勤務は、明後日。
明日は、休み。
明後日も同じ始発に乗る。同じ時刻表で動く。同じ停止位置に、誤差ゼロで停める。
それだけが、俺の人生の、全部だ。
それだけが、俺の人生の、全部で、よかった。
俺は、運転士手帳を、開いた。
今日の業務記録を、書き付けた。
「四時五十二分、所定発」
「停止位置誤差、ゼロ」
「業務、所定通り、終了」
その下に、俺は、もう一行、書き付けた。
「次の閉塞、進行よし」
ペンを、置いた。
窓の外で、朝陽が、登り始めていた。
俺の十三年の朝が、もう一度始まっていた。
ただし、いまの俺は知っている。
誰にも気付かれない毎朝の、ひとつひとつが、世界のどこかで、
誰かの祝詞と、合流している、ということを。
俺は軽く息を、吐いた。
次の勤務まで、明後日。
それまでに、この手帳を、もう少し、整えておこうと思った。
俺の十三年は、これから、十四年目に、入っていく。
休憩室に、入った。
いつもの長椅子に、座った。
自販機の紙コップで、ブラックの缶コーヒーを、買った。
苦みが、舌の上に、ゆっくり、広がった。
それは、俺が、十三年、毎朝、味わってきた、同じ苦みだった。
でもその苦みの奥にあるものが、今朝は違って感じられた。
苦みの中に、湯飲みの底のような、温かみが、含まれている気がした。
ふと休憩室の窓から、ホームの様子が、見えた。
始発を終えた電車が、車両基地に、戻っていく。
その先頭の運転席に、若い小宮が座っていた。
彼はいつものように緊張した顔で、ハンドルを握っていた。
俺はその姿を、しばらく眺めた。
いつかと俺は、思った。
いつか彼にも、誰かを、引き上げる日が、来るかもしれない。
その日、俺は、彼に、何を、言ってやれるだろうか。
たぶんこう、言ってやろう。
「お前のやってきた毎日に、意味は、ある。
お前が定時で走っていることが、すでに誰かの八百年に応えている」
その言葉を、いつか、自然に、彼に、言える日が、来る。
俺はそれを楽しみにしようと、思った。
窓の向こうで、空が、すっかり明るくなっていた。
通勤客が、ホームに、溢れ始めていた。
その全員が、誰かの、八百年に、合流している。
誰一人、孤立して、生きている人間は、いない。
俺は、缶コーヒーを、飲み干した。
立ち上がった。
ロッカーから、上着を、取り出した。
帰宅の途に、就く。
帰り道、駅前のスクリーンが、ニュースを、流していた。
夕方の特集ではない。朝の、ニュース。
通勤情報の、画面だった。
全国の主要路線、すべて、定時運行。
異状、なし。
俺はその画面を、しばらく眺めた。
全部の路線の、すべての運転士の毎朝の祝詞が、いまこの瞬間も続いている。
その全部が、世界の流れを、保っている。
俺はその中の、ほんの一人に、過ぎない。
でもほんの一人でも欠ければ、世界の流れはわずかに変わる。
ほんの一人としての、自分を、俺はもう卑下しない。
ほんの一人としての、自分の、十三年を、俺はもう軽く見ない。
俺の手帳の中の、四千七百日近い記録は、
アリサの一族の、八百年の祝詞と、
千人の市民の、夜明けの祈りと、
黒部老人の、和解の手紙と、
全部、合流している。
俺の人生は、孤独では、なかった。
ただ、孤独に、見えていただけだ。
俺は、駅前のスクリーンを、最後に、もう一度振り返った。
画面の中で、全国の路線の定時運行の表示が、青く灯っていた。
その青さは、廃都の宮殿の壁からにじみ出ていた薄い銀の光と、よく似ていた。
俺は軽く頷いた。
帰路を、歩き始めた。
次の勤務は、明後日。
明後日も、俺は、四時五十二分の、同じ始発に、乗る。
同じ時刻表で、動く。
同じ停止位置に、誤差ゼロで、停める。
黒部老人と、孫が、ホームから、手を振ってくれる。
小宮が、休憩室で、コーヒーを、飲んでいる。
俺は、いつもの定型句を、口にする。
「本日もご利用ありがとうございました」
その全部がたぶん誰かの、八百年の祝詞に、応えている。
誰にも気付かれなくても、いい。
俺は、いまは、それを、心から、信じている。
俺は息を吸った。
冷たい朝の空気が、肺の奥まで、入った。
その空気の中に、ほんの少しだけ、廃都の山頂で吸ったあの冷たい空気の記憶が、混じっている気がした。
俺の人生は、続く。
誰にも気付かれない、定時運行の毎朝が、続く。
次の閉塞、進行よし。
俺は、心の中で、その言葉を、もう一度唱えた。
空の向こうで、朝陽が、完全に、登った。
俺は自分の影が、長く街路に、伸びるのを、見た。
その影の先で、誰かが、また誰かの八百年に、繋がっている。
俺はそれを信じる。
信じて、明後日も、俺は、運転席に、座る。
その全部が、終着駅で、もう一度始発になる。
それが、運転士の、人生だ。
俺は軽く笑った。
誰にも、見られていない、笑顔だった。
でも、それで、よかった。
誰にも見られていなくても、その笑顔はたしかに、世界に合流していた。
俺の運転は、明後日も、始発四時五十二分から、始まる。
その朝も俺はいつも通り点呼に立ち、いつも通り指で時計を差し、いつも通り声に出す。
「次の閉塞、進行よし」
その一言で、世界は、またひとつ、進む。




