第十章「閉塞王の正体」
王都までの道のりは、五日かかった。
道中、宿駅ごとに、村人や旅人が、俺の馬の前に膝をついた。
「鉄路の使徒様」
「定時の聖者様」
名前が、俺より先に、街道を走っていた。
シエラの歌が、こんなに早く広がっているとは、俺は予想していなかった。
王都の城門で、王家の使者が出迎えた。
馬を預け、長い大階段を上る。
大理石の壁。煌々と輝く魔石灯。何百本もの旗。
俺はそのどれにも、馴染まなかった。
俺は通勤客の顔ぶれを覚える人間で、王家の儀礼を覚える人間ではない。
謁見の間で、王が俺を待っていた。
齢七十を越えた老王。
白髪、痩せた頬、しかし眼光はまだ鋭い。
俺は王の十歩手前で膝をついた。
「鉄路の使徒、高坂律。お召しに従い、参上致しました」
「面を上げよ」
顔を上げた。
王は、俺をじっと見ていた。
長い、長い視線だった。
その視線の中に、評価でも、警戒でもない、別の感情があるのを、俺は感じた。
それは、たぶん、希望、だった。
「卿の名は、辺境より風となって届いた」
「光栄に存じます」
「しかし、卿の真価は、定時運行や物流の差配のみにあるのではない。私はそれを知っている」
「と、申しますと」
「卿だけが、閉塞王の正体を、見抜くことができる」
俺は、息を呑んだ。
「正体、ですか」
「我が宮廷魔術師、エヴァン老師から、卿に説明させよう」
謁見の後、俺は北塔の最上階に案内された。
扉を開けると、中は書物の山だった。
羊皮紙、木簡、銀板。
全てが、八百年前の鉄路文明の記録だった。
部屋の奥で、白髪の老人が、書物の中から顔を上げた。
「鉄路の使徒よ、ようこそ」
彼が、エヴァン老師だった。
老師は、俺を窓辺の机に座らせ、一冊の書物を差し出した。
古い、革表紙の書物。
ページを開くと、人の名簿だった。
「閉塞王、と呼ばれる存在は、八百年前から、繰り返し現れている」
「繰り返し、ですか」
「百年に一度、二度。地脈の流れが歪むとき、過去の魂が、現世に呼び戻される。
その呼び戻された魂が、生前に、強い『止まりたかった』思いを持っていた者であれば、奴らは閉塞王として顕現する」
俺は、老師の言葉を、ゆっくり噛みしめた。
強い、止まりたかった思い。
「現在の閉塞王は、半年前から顕現している。
その魂は、明らかに、今までの閉塞王とは違う。
別の世界の魂、なのだ」
エヴァン老師は、ふと、俺を見上げた。
「卿と、同じ世界の魂、と言って良いだろう」
俺の心臓が、一拍、止まった。
「同じ世界、とは」
「卿が来たのと、ほぼ同時期に、別の魂が、この世界に転生してきた。
その魂は、卿よりわずかに早く、地脈の歪みを通って、ここに着いた。
そして、北の山脈の頂きに、閉塞王として君臨している」
俺は、しばらく言葉を失った。
そして、心の奥で、不吉な予感が、形を取り始めた。
「老師。閉塞王の、生前の名前は、わかっていますか」
「わかっている」
老師は、書物の名簿を、もう一枚めくった。
そこに書かれていたのは、見覚えのある名前だった。
「黒部、重蔵」
俺は、その名を、声には出さなかった。
ただ、口の中で、その四文字を、何度か、ゆっくりと、転がした。
黒部老人。
毎朝、ホームの先頭で、俺に文句を言っていた、あの老人。
俺の運転する電車が四分遅延した日に、心臓発作で死んだ、あの男。
彼が、こちらに来ていた。
俺より、わずかに、早く。
俺の頭の中で、いくつかの断片が、組み合わさった。
彼は、毎朝、俺に「遅刻するな」と言っていた。
時間に、強く執着する人間だった。
たぶん、彼は、自分の人生が、停滞することを、何より恐れていた。
地方議員だった、と名刺にあった。
政治の世界で、自分の地位が動かなくなることに、誰よりも、怯えていたのだろう。
その「止まることへの恐怖」が、転生して、逆向きの呪いとして発現した。
自分が止められないなら、世界を止めてしまえ。
動いている全てを、止めて、自分の停滞を、世界の停滞と一致させてしまえ。
その歪んだ論理が、俺には、痛いほど、理解できた。
わかってしまうことが、嫌だった。
俺は、机の上で、両手を組んだ。
指が、わずかに、震えていた。
「老師」
「うん」
「俺は、彼を、知っています」
「同郷の魂か」
「ええ。前世で、毎朝、私の電車に乗っていた、ただの乗客でした」
「ただの乗客が、世界を止める王になる」
老師は、深く息を吐いた。
「皮肉なものよ」
俺は、しばらく、窓の外を見ていた。
王都の街並みが、夕陽に染まっていた。
その街並みの北の彼方に、雪を被った、巨大な山脈が見える。
黒部老人は、あの頂きにいる。
俺の知っている、嫌な、文句ばかり言う、老人が。
俺は、ふっと、息を吐いた。
怒りでも、憎しみでもなかった。
ただ、深い、深い、疲労、に近いものだった。
アリサが、隣の椅子から、心配そうに俺を見ていた。
「リツ様、ご気分が」
「いや」
「お顔が、青いです」
「少し、知り合いの話を、聞かされただけだ」
俺は、立ち上がった。
「老師。閉塞王の本拠地までの、地図を、お借りできますか」
「もちろん」
「彼の魔法の、最も詳細な記録も」
「すべて、お貸ししよう」
俺は深く頭を下げて、書庫を出た。
廊下の窓から、北の山脈が、また見えた。
あそこに、いるのか。
あの、嫌な乗客が。
俺の中に、わずかに、奇妙な感情が湧き上がっていた。
憎しみではない。
哀しみでもない。
それは、たぶん、「ようやく会えるな」、という、奇妙な再会への予感だった。
毎朝、ホームで顔を合わせていた、あの男に、別の世界で、もう一度会う。
そして俺は、彼の魔法を、解除しなければならない。
たぶん、彼を、もう一度、止めなければならない。
その夜、俺は王都に用意された一室の窓辺で、ろうそくを灯し、机に手帳を広げた。
黒部老人の生前を、できる限り、思い出そうとした。
毎朝の文句、唾の飛び散る声、年季の入った革靴。
一度だけ、彼が、ぽつりと言ったことがある。
「俺はな、議員時代、駅前再開発のために、うちの父親の代から続いた書店を取り壊させたんだ」
飲み屋の前を通りかかった俺に、酔った彼が、絡んできた時の話だった。
「町のためだったんだ。仕方なかったんだ。
なのに、町は俺を恨んでる。父親も、死ぬ前まで、俺と口を利かなかった」
彼はそう言って、ふらつく足で、夜の道に消えていった。
その時、俺は彼の言葉に、ろくに反応しなかった。
俺は他人の人生に、深く立ち入る人間ではなかった。
今になって、その言葉が、俺の中で、別の意味を持って蘇ってくる。
黒部老人は、たぶん、あのとき、何かを止めてしまった人間だった。
町の流れを、家族の絆を、自分自身の感情を、すべて、自分の手で止めてしまった。
止まったものに、彼は耐えられなかった。
だから、彼は、毎朝、動いている電車に向かって、文句を吐き散らしていた。
文句を言うことだけが、彼にとって、唯一動かせるものだったから。
俺は、ろうそくの炎を、しばらく見つめた。
炎は、わずかに揺れた。
それが、停滞することを最も恐れた男の、せめてもの動きであるかのように。
扉の向こうで、アリサが、小さな声で囁いた。
「リツ様、お休みになりますか」
「もう少し、起きている」
「お側に、おりますか」
「いや、いい。明日、長い行軍になる。君も、休んでくれ」
「は、はい」
彼女の足音が、廊下の奥へ消えていった。
俺は、もう一度、手帳に向かった。
北の山脈までの、地図上の最短経路を、線で引いた。
集落の位置、河川の渡渉点、勾配のきつい山道。
馬で進める区間と、徒歩でしか進めない区間を、色を変えて記した。
最後に、頂上の閉塞王の城まで、所要日数を計算した。
最速で、九日。
俺は手帳を閉じ、ろうそくを吹き消した。
暗闇の中、俺は目を閉じた。
黒部老人の声が、耳の奥で、もう一度、響いた。
「俺の出勤に間に合わなかったら、お前のせいだからな」
その声が、奇妙にも、懐かしかった。
俺は、手帳を開き、新しいページに、一行書いた。
「次の閉塞、進行よし」
いつもの祝詞だった。
しかし今、その言葉の意味は、俺の中で、少しずつ、変わり始めていた。
あの男に、もう一度、定時で、進路を譲ってもらう。
それが、たぶん、俺が次にやらなければならない、運転士の仕事だった。




