第9話 屋敷が君を必要としている
手紙を書いている。
三枚目の便箋を丸めて、屑籠に入れた。書斎の机の上には、書きかけの便箋が散らばっている。使用人が四人辞めた翌週から、俺はこの手紙を書き始めた。一週間かかっている。一週間もかけて、まだ一行も書けない。
最初に書いた文面は、こうだった。「屋敷の運営に支障が出ている。戻ってきて帳簿を見てくれないか」。読み返して、破った。これでは取引先に出す催促状と変わらない。
二枚目。「使用人が辞めた。お前がいないと屋敷が回らない。頼むから戻ってくれ」。これも破った。「頼むから」の一語が、自分でも情けなく見えた。だが情けなさの理由が分からない。情けないのは、頼む相手を五年間軽んじていたからだろうか。それとも、頼む言葉しか浮かばない自分の語彙の貧しさだろうか。
三枚目は長く書いた。あの屋敷でお前が何をしていたか、今は分かっている。帳簿のこと、取引先のこと、使用人のこと、母の薬のこと。覚書のこと、花の印のこと。全部知った。だから戻ってきてほしい。読み返して、また破った。「全部知った」という言葉が嘘だと気づいたからだ。全部は知らない。知ったのは「お前がいないと困る」という事実であって、「お前が何を感じていたか」ではない。
四枚目。書き出しに迷い、窓の外を見た。庭の植え込みが伸びている。ヨハンがいなくなって、誰も刈る者がいない。台所からは煮焦がした匂いがする。エルザの代わりに雇った料理人は、半熟卵の作り方を知らない。
便箋に向き直り、書いた。
屋敷が君を必要としている。戻ってきてくれないか。
読み返した。これでいい、と思った。短い。余計なことを書いていない。屋敷が機能していない。君がいないと動かない。だから戻ってほしい。事実だけを書いた、と俺は思っている。
だがこの一行を、もう一度読む。屋敷が。屋敷が君を必要としている。主語は屋敷だ。俺は、という主語を一度も書かなかった。一週間かけて何枚も書き直して、一度も。それに気づかないまま、封をした。書き上げるのに一週間かかった手紙は、一行だった。
エーデルの居場所は、ハンスが商会の取引先を辿って突き止めた。港町のベーレンシュタイン商会。貿易商だ。そこで経理の仕事をしているらしい。経理。あいつが。あの屋敷で五年間やっていたことと同じことを、別の場所で、今度は給金をもらってやっている。その事実が、胸の奥で小さく軋む。軋みの名前が何かは、まだ分からない。嫉妬ではないと思う。悔しさに近い。だが何に対して悔しいのか、言葉にできない。
馬車で港町に向かった。半日の距離だ。馬車の中で、封をした手紙を何度か手に取り、また膝に置いた。一行しか書いていないのに、封が妙に重い。降りて、港の通りを歩いた。潮の匂いがする。あの屋敷の書斎にはない匂いだ。魚と塩と、働いている人間の匂い。この町で、あいつは毎日この匂いの中を歩いている。
ベーレンシュタイン商会は、港に面した二階建ての建物だった。扉を開けると、帳場が見える。
エーデルがいた。
帳簿を広げ、帳場の椅子に座り、数字を追っている。髪はいつも通りきちんと結い上げてある。だが何かが違う。服が違うのか。表情が違うのか。しばらく見て、分かった。手元が違う。あの屋敷で帳簿を開いていたときの手は、急いでいた。誰かに見られる前に終わらせなければならない手つきだった。今の手は、急いでいない。自分のための帳簿を、自分のペースで開いている。
帳場の奥から、背の高い男が出てきた。日焼けした顔に鋭い目。外套の仕立ては上等だが、着崩している。商人だろう。俺を見て、一歩前に出た。
「何かご用ですか」
「リヒテンフェルト家のアルスだ。エーデルに用がある」
男の目が動いた。エーデルの名前を聞いたときの反応ではない。リヒテンフェルトの名前を聞いたときの反応だ。この男は、俺の家の名を知っている。エーデルから聞いたのだろう。何を聞いたかは想像がつく。
「彼女はうちの経理主任だ。用件は俺を通してくれ」
経理主任。主任という肩書きがついている。あの屋敷では「嫁」としか呼ばれなかった人間に、この男は肩書きと報酬を与えている。それだけのことが、俺には少し眩しかった。
「手紙を渡したいだけだ。直接渡す」
男は少し考えてから、エーデルのほうを見る。エーデルが小さく頷いた。それを確認してから、男が一歩退く。エーデルの判断を待ってから動いた。この男は、エーデルの意思を確認する人間だ。俺はあの屋敷で、一度でもそうしただろうか。
エーデルの前に立った。手紙を差し出す。エーデルが受け取り、封を開け、一行の文面を読んだ。
エーデルが微笑んだ。
怒りでも、悲しみでも、軽蔑でもない微笑みだった。何かを確認した人間の顔だ。予想通りだったのだろう。俺の一週間は、エーデルの予想の中に収まっていた。
「お屋敷のことでしたら、覚書を残してまいりましたので、そちらをお読みください。」
声は穏やかだった。あの屋敷にいた頃と同じ丁寧な口調だ。だが五年前とは違う。この声には諦めがない。あの頃のエーデルは、俺の言葉に合わせて返事をしていた。今のエーデルは、自分の言葉を選んで言っている。選ぶ力を持っている。あの屋敷にいた頃には、なかった力だ。いや、あったのかもしれない。俺が見ていなかっただけで。
「覚書だけでは回らないんだ。お前がいないと」
「旦那様。覚書の棚の三段目に、月末の帳合いの手順書がございます。取引先の覚書は別の冊子にまとめてあります。使用人の管理簿も残してございます。お屋敷を回すために必要な情報は、全てあの棚の中にあります」
淀みなく棚の位置を言える。あの屋敷の棚の構造を、あいつは今でも覚えている。覚えていて、その上で戻らないと言っている。
「情報の問題ではない。お前でなければ」
「旦那様がお読みくださればお分かりになります。私がしていたことは、全て手順書に書いてございます。どなたでも、お読みになれば同じことができます」
どなたでも。俺が言った言葉が返ってきた。「帳簿くらい、誰でもつけられるだろう」。あの言葉を、エーデルは丁寧語に包んで俺に返している。誰でもできる仕事なら、私でなくてもいいはずです、と。
俺は何も言い返せなかった。言い返す言葉がない。帳場を出て、港の通りに立った。潮風が顔に当たる。手紙は、エーデルの手の中にある。一行の手紙。一週間かけた一行。あの一行が、俺にできる全てだった。全てが、足りなかった。
俺が去った後のことは、知らない。だがこういうことがあっただろうと、今の俺には想像がつく。
ニクラスという男が、エーデルに訊いただろう。
「戻りたいか。」
エーデルはこう答えただろう。
「いいえ。あの手紙の主語は、屋敷でした。」
主語。屋敷が君を必要としている。屋敷が。
あの一行を書くのに一週間かかった。何枚も書き直している。それでも俺は、「俺が君を必要としている」とは書けなかった。その言葉が浮かばなかった。浮かぶはずがない。俺はあいつを、五年間一度も、「俺が必要としている人間」だと思ったことがない。必要としていたのは屋敷が回ることであって、あいつ自身ではなかった。あいつはそれを、一行で見抜いた。一行で十分だ。俺の一週間より、あいつの一瞬のほうが正確だった。
帰りの馬車の中で、窓の外を見ていた。港町が遠ざかっていく。あいつがいる町が小さくなる。あの帳場で、あいつは俺の手紙を読んで微笑んだ。あの微笑みの意味が、今なら少しだけ分かる。予想通りだった、ということだ。俺が書くのは「屋敷が」だろうと、あいつには分かっていた。五年間の蓄積が、あの一瞬の微笑みに集まっている。
俺はあの微笑みを、五年間で一度も見たことがなかった。あの屋敷にいた五年間、あいつが微笑むのを見た記憶がない。聞き分けよく頷く顔は覚えている。覚書を書いている横顔は覚えている。だが微笑みは、ない。あいつは、俺の前では一度も微笑まなかった。微笑む理由がなかったからだ。
手紙を折り畳み、引き出しにしまった。次に開ける日は来ないだろうと、エーデルは思った。そして思っただけで、もう何も痛くなかった。




