第10話 侍女が一人もついてこなかったと聞いて、あの人は笑ったそうです
港町に来て、四ヶ月が過ぎた。
叔母の店の二階から、ニクラスさんの商会の近くに部屋を借りた。小さな部屋だが、窓が二つあって、片方は港が見え、もう片方は裏庭に面している。裏庭には物干し竿がある。自分の服を自分で洗い、自分で干す。それが毎朝の仕事になった。
商会での仕事は順調だった。カルステン商店との交渉は無事に決着し、超過分の返金も済んでいる。取引先の中に、私の名前を覚えてくれる人が少しずつ増えた。「ベーレンシュタイン商会のエーデルさん」。その呼ばれ方に、まだ少し驚く。私の名前が、仕事の場所で呼ばれている。あの屋敷では、名前を呼ぶ人はほとんどいなかった。「奥様」か「あの子」か、呼ばれること自体がないか。
柘植の櫛で毎朝髪を梳く。あの屋敷にいた頃とは違う手つきで、ゆっくりと。急ぐ必要がない朝は、こんなにも穏やかだ。
ある日の昼過ぎ、商会の扉が開いた。
マルタだった。
旅の装いをしている。荷物は肩掛けの鞄ひとつ。あの屋敷を辞めた後、少し旅をしていたと聞いていた。叔母の店に手紙を寄越していたから、私がここにいることは知っていたのだろう。
「奥様」
マルタは私をそう呼んだ。もうどこの屋敷の奥様でもないのに。けれどマルタの口から出る「奥様」は、肩書きではなく名前のように聞こえる。
「マルタ、遠いところをよく」
「少しお話ししたいことがありまして」
帳場を離れ、港の通りに面した階段に腰を下ろした。潮風が吹いている。マルタは隣に座り、少しの間、海を見ていた。
「奥様が出ていかれた朝のことを覚えていらっしゃいますか」
「ええ」
「あの朝、旦那様にご報告いたしました。奥様の馬車が見えなくなりました、と。旦那様は仰いました。『ああ、それで?』と」
覚えている。マルタが報告したことも、あの人がそう答えたことも。聞こえてはいなかったが、あの人ならそう言うだろうと思っていた。
「その後、旦那様はこうも仰っていたそうです」
マルタが少し間を置いた。海の向こうに、船の帆が白く見えている。
「侍女が一人もついてこなかったと聞いて、旦那様はお笑いになったそうです。」
笑った。あの人は、笑ったのか。
侍女が一人もついてこなかった。それはあの朝、私が一番よく知っていたことだ。誰にも声をかけなかった。声をかける権利が自分にあるとは思えなかった。五年しかいなかった嫁が、長く仕えた使用人に「一緒に来て」と言える立場ではない。だから一人で馬車に乗った。革鞄ひとつで。
あの人はそれを見て、笑った。惨めな女だと。侍女すらつかない、持参金の少ない子爵令嬢の末路だと。
「ええ、そうでしょうね。」
私は微笑んで答えた。あの人がそう笑うことは、五年間の蓄積で分かる。驚きはない。
マルタが私を見た。まっすぐに。
「でも奥様、あの方たちがついていかなかったのは、旦那様のお屋敷を辞めるつもりだったからです。」
風が止まった。
いや、止まってはいない。港の風は変わらず吹いている。止まったのは私の中のものだ。
「エルザも、ヨハンも、ブリギッテも、奥様を追ったのではありません。奥様がいなくなった屋敷に仕える理由を失ったのです。奥様が信頼してくださった順に、あの屋敷を辞めました。私が最初に辞めたのは、奥様に一番長くお仕えしていたからです」
辞めた順番が、私の信頼の順番だった。
あの覚書。使用人の名前の横に、私は小さな花の印をつけていた。この人は残ってほしい、という祈りのようなもの。誰に見せるつもりもなかった。ただ自分の中で、この人たちとこの屋敷で過ごせる時間に感謝するために描いた花だった。マルタの名前の横には、花が一番多かった。二十年も前からあの屋敷にいて、私が来たときも去るときも変わらず台所に立っていた人。その人の名前の横に花を描くとき、私は少しだけ幸せだった。
その花の順に、あの人たちは辞めたのか。
私がついてきてほしいと言えなかった人たちが、私がいなくなったことを理由にあの屋敷を去っていった。あの朝、馬車の中から屋敷を振り返らなかった。振り返ったら歩けなくなると思ったから。でも振り返らなくても、あの人たちは見ていた。私の背中を。私の革鞄ひとつの荷物を。私がいなくなった台所と、私が残した覚書を。見て、それぞれの場所で、自分の答えを出していた。
涙が出た。
この四ヶ月、泣いていなかった。離縁を告げられた夜も、馬車に乗った朝も、叔母に「ただ働き」と言われたときも、初めての月給を受け取ったときも。泣く場所がなかった。泣く暇がなかった。泣いてしまったら、立ち上がれなくなるような気がしていた。
今、泣いている。港の階段に座って、マルタの隣で、声を出さずに泣いている。潮風が涙を乾かす前に、次の涙が落ちる。
マルタは何も言わなかった。隣に座って、海を見ている。この人の沈黙は、あの屋敷にいた頃から変わらない。必要なことだけを言い、余計なことは言わない。今、私に必要なのは言葉ではなく、隣にいる人の体温だ。マルタはそれを知っている。
しばらくして、涙が止まった。
「マルタ、これからどうするの」
「少し旅を続けて、落ち着ける場所を探します。奥様のおかげで、覚書の書き方は覚えましたから。どこに行っても、仕事には困りません」
そう言ってマルタは笑った。控えめな、でも確かな笑顔。この人がこんなふうに笑うのを、あの屋敷では見たことがない。
覚書の書き方。あの屋敷で私が書き続けた覚書の作法を、マルタは受け継いでくれている。棚に残してきた紙の束は、もう必要ない記録だ。覚書が必要だったのは、あの屋敷にいる間だけのことだった。
夕方、マルタが宿に向かった後、私は商会に戻った。
ニクラスさんが帳場にいた。私が戻ると、いつものように帳簿を指して「ここ確認してくれ」と言う。それから少しだけ私の顔を見て、何も訊かなかった。泣いた痕が残っているはずだが、訊かない。この人はいつもそうだ。訊かないことで守ってくれる。初めて月給をもらった日も、ヴェーバーの交渉の後も、そして今日も。同じ距離を保ってくれている。その距離が、私には一番ちょうどいい。
帳簿の確認を終えて、窓の外を見ると、港の夕日が水面に長く伸びている。今日一日、帳簿の数字は正確に合っていた。この正確さに対して、毎月給金が出る。当たり前のことが、まだ少しだけ新鮮だ。
ニクラスさんが帳場の片づけをしながら、背中を向けたまま言った。
「うちにいてくれるか。商会にも、俺の隣にも。」
背中を向けたまま。この人は大事なことを言うとき、相手の顔を見ない。見たら相手が断りにくくなると知っているからだ。断る自由を渡している。あの屋敷では、断る自由は私の手の中になかった。この人は、私にそれを持たせたまま訊いてくれている。
「はい。」
私の声は、小さかったと思う。でもニクラスさんの背中が少しだけ止まったから、聞こえたのだろう。この人の背中が止まるのを見るのは、初めてだ。
「そうか」
それだけ言って、ニクラスさんは片づけを続けた。私も帳簿を棚に戻す。それだけだった。それだけで十分だ。大きな言葉はいらない。この人が私の仕事に値段をつけ、判断を信じ、名前を呼び、今こうして隣にいることを選んでくれた。私もこの人の隣を選ぶ。初めて、自分の意思で。初めて、自分の答えとして。
翌朝、いつもより少しだけ早く起きた。
裏庭に出て、洗い終えた服を物干し竿にかける。白い布が朝の風に揺れる。ここには使用人の仕事着はない。干してあるのは、私の服だけだ。私が着る服を、私が洗って、私が干している。
四ヶ月前、あの屋敷の庭でも同じことをしていた。あの朝、最後に干したのは使用人の仕事着だった。誰かのための洗濯物を、誰にも気づかれないまま干して、そのまま門を出た。
今朝、干しているのは自分の服だ。自分のために洗って、自分のために干している。手つきは同じだ。布の端を丁寧に伸ばし、皺が残らないように留め具にかける。五年間で身についた手つきが、今は自分のために動いている。
干したばかりの白い布が、港の風に揺れていた。あの朝と同じ手つきで、でもあの朝とは違う理由で、私は洗濯物を干している。
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