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侍女が一人もついてこなかったと聞いて、あの人は笑ったそうです  作者: 九葉(くずは)


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第8話 奥様が辞めてほしくないと思った人順に、辞めています

 辞表を書いた。


 便箋に一行だけ書いて、封をして、旦那様の書斎の前に立った。二十年この屋敷に仕えた。奥様が来る前の十五年、奥様がいた五年間、奥様がいなくなった後の三ヶ月。この屋敷の時間は、私の中ではそう区切られている。


 奥様がいた五年間が、一番長く感じる。一番多くのことを教わった五年間だった。覚書のこと、帳合いのこと、使用人の体調を気にかけること。奥様が来る前は、この屋敷は「回っていた」のではなく「なんとかなっていた」だけだ。奥様が来てから初めて、仕組みで回るようになった。


 その仕組みの中心がいない今、この屋敷はまた「なんとかなる」に戻るだろう。だが私は、仕組みの中で働くことを知ってしまった。知った人間は、もう「なんとかなる」には戻れない。


 扉を叩いた。旦那様が「入れ」と言う。入って、封を差し出す。


「マルタ、何だこれは」


「辞表でございます」


 旦那様の顔が変わった。これまでの取引先の離脱や帳簿の混乱とは、違う種類の衝撃が走っている。使用人が辞めるということは、屋敷の内側から崩れるということだ。


「なぜだ。不満があるなら言ってくれ。待遇の問題なら」


「私はもう、この屋敷に仕える理由がありません。」


 待遇の問題ではない。給金に不満はない。旦那様に個人的な恨みもない。ただ、この屋敷を屋敷たらしめていたものがなくなった。覚書が棚に残っているだけでは、屋敷は回らない。覚書を書いた人が、もういない。


 旦那様は封をじっと見つめていた。開けなかった。


 引き継ぎの期間として、月末までこの屋敷に残る。


 私の後に、エルザが辞表を出した。


 厨房の料理人。奥様が毎朝、献立の覚書を置いてくれていた人だ。エルザは泣きながら辞めた。「奥様の覚書がなかったら、私はただの言われた通りに作る人間です。奥様が献立を考えて、調味料を揃えて、旦那様の好みまで教えてくれていた。あの方がいなくなって、私は自分が何を作ればいいか分からなくなりました」。エルザは台所の棚に貼ってあった覚書を一枚ずつ剥がし、自分の荷物と一緒に持っていった。棚に白い跡が残る。


 次に庭師のヨハンが辞める。奥様が季節ごとに植え込みの手入れ周期を指示してくれていた。ヨハンは寡黙な男で、辞める理由を多くは語らない。「奥様は庭の花の名前を全部覚えていた」とだけ言い残して門を出ていった。ヨハンが出ていく朝、庭の植え込みは最後にきれいに刈り揃えてあった。辞めるときにまで仕事を残さない人間は、良い主人に仕えた人間だ。


 洗濯係のブリギッテが辞めた。奥様が離縁の朝に最後に干したのは、ブリギッテの仕事着だった。「あの朝、私の仕事着を干してから出ていかれた方のお屋敷を、私はもう守れません」。ブリギッテの声は静かだった。怒ってもいない。悲しんでもいない。ただ、事実としてもう無理だと言っている。


 一人、また一人。三ヶ月で四人が辞めた。残ったのはハンスと、若い侍女のリーゼだけだ。屋敷は六人で回していた。奥様が設計した仕組みの上に六人が乗って、それで回っていた。仕組みの設計者が去り、乗っていた六人のうち四人が降りた。残った二人で、この屋敷は回らない。


 ハンスが辞職者の名前を並べたのは、ブリギッテが辞めた日の夜だった。


 台所の卓に紙を広げ、辞めた順番を書き出していく。マルタ、エルザ、ヨハン、ブリギッテ。四つの名前が縦に並ぶ。ハンスがそれを見つめながら呟いた。


「おかしい」


「何がですか」


「辞めた順番だ。最初に辞めたのはマルタ、一番の古参だ。次にエルザ、その次にヨハン。全員、奥様が来る前からこの屋敷にいた者だ。勤続年数の長い順に辞めている」


 勤続年数。確かにそう読める。だが、それだけではない。私は気づいていた。もっと正確な法則がある。口にするのをためらっていたが、ハンスが気づきかけているなら、言うべきだろうか。


 言う前に、リーゼが言った。


 残った最後の若い侍女。奥様が離縁の一年前に雇った、この屋敷で最も新しい使用人だ。リーゼはまだ十九で、空気を読む力より事実を述べる力のほうが強い。だからこそ、この言葉を言えるのはこの子しかいなかった。


「奥様が辞めてほしくないと思った人順に、辞めています。」


 台所の空気が凍った。ハンスの手が止まる。私も動けなかった。


「リーゼ、それはどういう意味だ」


「奥様が残してくださった覚書の中に、使用人の名前の一覧がありましたよね。あの覚書、名前の横に小さな印がついていたんです。花の形の印です。私、数えたんです。あの印がたくさんついている人から順に、辞めています」


 私は知っていた。


 あの覚書を、私は奥様が出ていかれた夜に見ている。棚の奥にあった最後の一冊。表紙に使用人の名前が並んでいた。あのときは、名前が書いてあるとしか思わなかった。印の意味など考えもしなかった。だが、名前の横の花の印が何を意味するか、リーゼの言葉で初めて分かる。


 リーゼが続ける。


「先輩たちに辞める理由を聞いたんです。みんな同じことを言いました。『この屋敷に仕える意味がなくなった』と。でもそれは、旦那様への不満ではないんです。奥様がいたから仕えていた、という意味です。奥様がいなくなったとき、奥様に最も信頼されていた人から順に、仕える理由を失ったんです」


 ハンスが名簿を見ている。マルタ、エルザ、ヨハン、ブリギッテ。花の印の数を確かめるように、覚書と照らし合わせている。


「合っている。辞めた順番と、花の印の数が一致する」


 一致する。


 奥様は、使用人の名前の横に花の印をつけていた。それは「この人は残ってほしい」という意味だった。印が多い者ほど、奥様にとって大切な人間だった。そして、印が多い者から順に、辞めている。


 奥様が最も信頼した人間から、最も早く去った。なぜなら、信頼されていた人間ほど、奥様がいなくなったこの屋敷に仕える理由を強く失うからだ。奥様のために働いていた部分が大きい人間ほど、奥様のいない屋敷には残れない。


 辞めた者たちは、奥様を追ったのではない。奥様が信頼した順に、この屋敷に仕える意味を失った。それだけのことだ。それだけのことが、この屋敷の全てを壊している。奥様が静かに置いていった信頼の地図が、今、静かにこの屋敷を空にしていく。


 翌朝、ハンスが旦那様に報告した。辞職者の順番と、覚書の花の印の一致について。


 書斎の扉が開いたまま、旦那様が名簿を見ている。覚書を膝に載せて、花の印を一つずつ指で追っている。窓の外で鳥が鳴いている。庭の植え込みは、ヨハンが最後に刈り揃えた形のまま、少しずつ崩れ始めている。


 長い沈黙の後、旦那様がこう言った。


「エルザというのは、厨房の」


「はい。料理人のエルザです」


「ヨハンは」


「庭師です」


「ブリギッテは」


「洗濯係です」


 名簿が膝から落ちかけて、旦那様が慌てて押さえた。名前を確認していたのだ。辞めた人間の名前を知らなかった。同じ屋敷に暮らし、毎日その人たちが作った食事を食べ、その人たちが手入れした庭を窓から眺め、その人たちが洗った服を着ていた。それでも四人の名前を、今この場で確認しなければならない。


 奥様は違う。使用人の名前だけでなく、家族の誕生日も、腰の治療の日も、娘の好きな花の色も覚えている。覚えて、書き留めて、花の印までつけていた。その奥様を、旦那様は「ああ、それで?」と見送った。見送ったことを、覚えているのだろうか。


 書斎を出るとき、旦那様の顔が見えた。怒りでも悲しみでもない表情がそこにある。何と呼べばいいのか分からない顔だ。自分が踏んでいた地面が、地面ではなく誰かの手のひらだったと知ったときの顔。その手のひらはもう、ここにはない。


 廊下を歩きながら、私は覚書のことを考えていた。奥様はあの覚書を、自分がいなくなった後のために書いた。使用人が困らないように。引き継ぎのために。だが花の印は違う。あれは引き継ぎではない。あれは奥様の心そのものだ。「この人には残ってほしい」という祈りを、花の形にして名前の横に置いた。誰にも読まれないことを知りながら。


 辞めていった者の名前を、旦那様は一人も覚えていなかった。奥様は、全員の名前の横に、小さな花の印をつけていた。

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