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侍女が一人もついてこなかったと聞いて、あの人は笑ったそうです  作者: 九葉(くずは)


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第7話 俺に相談しなかったな

 王都から戻ると、帳場の空気が変わっていた。


 三日間の出張だった。染料の新しい仕入れルートの交渉で、結果は悪くない。単価を二割落とせた。馬車を降りて商会の扉を開けたとき、最初に目に入ったのは仕入れの成果の報告書ではなく、帳場に座っているエーデルさんの手元だった。


 帳簿が開いている。隣に、見覚えのない書類が並んでいる。交渉記録の書式だ。俺が留守の間に、何かあったらしい。


「お帰りなさいませ。出張中にお伝えすべきことがございます」


 エーデルさんが立ち上がり、書類を差し出した。ヴェーバー商会からの値引き要求。染料の卸値を一割五分下げろ、という内容だ。俺が王都に発った翌日に届いたらしい。返答期限は三日。つまり、俺の帰りを待つ余裕はなかった。


「この要求に対して、こちらの在庫量と仕入れ原価を根拠に交渉いたしました。結果、値引き幅は五分に収めております」


 書類を見た。エーデルさんが作った交渉の記録が綴じてある。ヴェーバー側の要求額、こちらの原価、利幅の下限、最終合意額。数字が全て揃っている。根拠のない譲歩は一つもない。帳簿の数字を使って、論理で押し返している。


 一割五分を五分に。俺が交渉しても、せいぜい七分か八分だっただろう。帳簿の原価データを交渉材料に使うのは、俺のやり方と同じだ。だがこの人は、俺が教えたわけでもないのに同じ方法にたどり着いている。五年間、どこかの屋敷で帳簿を見続けていた人間の手つきだ。ただ働きの五年間が、皮肉にもこの人を商会で通用する経理職に鍛え上げた。


 それを才能と呼ぶのは簡単だ。だが才能を認めずに使い潰した場所が以前あったということでもある。


「俺に相談しなかったな。」


 エーデルさんの肩が揺れた。


 小さな震えだった。一瞬だけ。すぐに背筋が伸びるが、その一瞬に、この人の五年間が見える。独自に判断したら叱られる。勝手なことをしたら怒られる。そういう場所にいた人間の反射だ。


「申し訳ございません、勝手に」


「助かった。次も頼む。」


 エーデルさんの言葉を遮って言った。遮ったのは意図的だ。謝罪を最後まで言わせたら、この人はまた「自分が悪い」と思い込む。そういう癖がついている人間は、褒めるより先に、謝る回路を断たなければならない。


 エーデルさんが俺を見ている。信じていいのか測っている目だ。この目を、俺は知っている。母が父に何かを提案するとき、同じ目をしていた。言ってもいいのか。怒られないか。却下されないか。その判断を、言葉を発する前にしなければならない場所にいた人間の目だ。


「値引き幅五分は、俺でも出せなかった数字だ。帳簿の原価データを使ったのは正しい。ヴェーバーは感覚で押してくるから、数字で返されると弱い」


「ヴェーバー様の請求の推移を過去二年分調べたところ、毎年この時期に値引きを要求される傾向がありましたので、想定の範囲と判断しました」


 過去二年分。この人は、俺に言われる前に過去の傾向を調べていた。あの屋敷で五年間やっていたのと同じだ。先を読んで、仕組みを作って、黙って回す。違うのは、ここでは俺がそれを見ているということだ。見て、対価を払う。そうあるべきだった場所で、そうされなかった人間が、今ここにいる。


 夜、帳場の片づけが終わった後、港の通りに面した階段に腰を下ろした。エーデルさんも帳場の椅子に座ったままだ。窓から夜風が入ってくる。潮の匂いと、遠くの酒場の灯り。商会は港に近いから、夜になると波の音がよく聞こえる。


 今日の交渉記録を見返しながら、俺は考えていた。この人をうちの商会に迎えたのは、帳簿の腕を買ったからだ。それは今も変わらない。だがこの一ヶ月で、帳簿の腕とは別のものが見え始めている。この人がいると、帳場の空気が違う。数字が整うだけでなく、仕事の流れそのものが変わる。俺が一人でやっていた頃には気づかなかった穴を、この人は黙って塞いでいく。


 母がいた頃の商会も、こんな空気だったのだろうか。


「少し、聞いてもらっていいですか」


 俺が言うと、エーデルさんは驚いた顔をした。俺が自分から話を切り出すことは、ほとんどない。


「俺の母は、商家の帳簿係だった」


 エーデルさんの手が止まった。帳簿を片づけようとしていた手が、膝の上に戻る。


「父は腕のいい船乗りで、母の実家の商会に婿入りした。商売の才はある男だった。仕入れの目利きも、新しい取引先を開く度胸もあった。だが父は帳簿仕事を馬鹿にしていた。海の上で稼いでくるのは俺だ、帳簿をつけるだけの仕事に何の価値がある、と。母はそれでも毎日帳簿をつけ、取引先を回り、商会の信用を繋ぎ止めていた。父はそれを見なかった。見ようとしなかった」


 港の波の音が聞こえる。遠くで荷揚げの灯りが揺れている。


「母が病で亡くなったとき、父は初めて帳簿を開いた。何も読めなかった。母の字が読めないのではなく、帳簿がどう動いているかを知らなかった。取引先は母の顔で繋がっていたから、半年で三分の一が離れた。商会は傾いて、俺が継いだときには借金が残っていた」


 エーデルさんは黙って聞いている。相槌を打たない。質問もしない。ただ聞いている。この人の聞き方は、こういう話に慣れている人間の聞き方ではなく、聞くしかなかった人間の聞き方だ。同じ場所に立ったことがある者の沈黙。


「帳簿を守る人間を馬鹿にする奴が嫌いだ。身内でも。」


 エーデルさんの目が少し揺れた。何かを堪えている顔だ。泣いているわけではない。涙の手前にある、もっと深い場所で何かが動いている。


 俺はそれ以上は言わなかった。「あなたのことだ」とも「あなたの元夫のことだ」とも言わない。言えば、この人は俺の言葉に合わせて自分の過去を整理し始める。それは俺の仕事ではない。この人が自分のペースで言葉にするまで、俺は帳簿を開いて待つ。それが、帳簿係の価値を知っている人間にできる、唯一のことだ。


 しばらく、波の音だけが帳場を満たしていた。港の灯りが窓から入り込み、壁にぼんやりとした影を作っている。やがてエーデルさんが小さく言った。


「ニクラスさんのお母様は、立派な方でしたね」


「ああ。帳簿をつける手が、この港で一番きれいだった」


 言ってから、自分でも少し驚いた。母の手の話を人にしたのは、これが初めてだ。なぜこの人に話したのか、理由は分からない。分からないが、間違った相手に話したとは思わない。


 俺は立ち上がった。明日の書類の確認がある。エーデルさんも立ち上がり、帳簿を棚に戻した。


 帳簿を棚に戻すエーデルさんの横顔は、うちに来た初日より少しだけ柔らかかった。

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