第6話 初めてもらった月給で、私は自分の櫛を買いました
ベーレンシュタイン商会の帳簿は、叔母の店よりずっと大きかった。
取引先が港町だけで三十以上、王都にも十数件ある。仕入れの品目は布、染料、香辛料、陶器。船便の到着日と仕入れ値が連動するため、帳簿のつけ方もあの屋敷の掛売り帳とは違う。けれど数字の流れを追う作業は同じだ。入ってくる数と、出ていく数。その差が合っているか。合っていなければ、どこで狂ったか。それを探す手つきは、五年間で体に刻まれている。
ニクラスさんの商会で働き始めて、三週間が経った。
最初の一週間は帳簿の構造を把握することに使った。取引先ごとの元帳と、品目ごとの補助簿がある。二週間目に、過去三年分の取引記録を通して読んだ。三週間目の今日、一件の仕入れ先に違和感を見つけた。
カルステン商店。染料の主要な仕入れ先だ。請求額と帳簿上の単価が、ここ半年ほどわずかにずれている。一回あたりの差額は小さい。銅貨数枚。だが半年分を積み上げると、銀貨にして二十枚を超える。
ずれの原因は二つ考えられる。転記の誤りか、仕入れ先が意図的に上乗せしているか。私は請求書の原本を遡って確認した。原本の数字と帳簿の数字は一致している。つまり帳簿の転記ミスではない。請求書の側が、契約時の単価より高い。
ニクラスさんに報告した。
「カルステン商店の染料の請求額が、契約単価と合っていません。ここ半年で銀貨二十三枚と六リントの超過です」
帳簿と請求書の原本を並べて、差額の一覧を見せた。ニクラスさんは黙って数字を追い、一度だけ顎を引いた。
「それは俺も見落としていた。カルステンのところは古い付き合いだから、請求書を細かく突き合わせていなかった」
古い付き合いだから見ない。あの屋敷でも同じことがあった。長く続いた取引先ほど、帳合いが甘くなる。信用は大事だが、信用することと検証することは別のものだ。
「契約書の原本はどちらに」
「金庫にある。出すか」
「お願いします。原本の単価と照合すれば確定できます」
ニクラスさんは金庫から契約書を出し、私に渡した。鍵のかかった金庫の中身を、入って三週間の経理職に預ける。この人は信用を、肩書きではなく仕事で測る人間だ。
照合した結果、超過は確定した。カルステン商店が契約改定の通知なしに単価を引き上げている。ニクラスさんは数字の一覧に目を通し、「来週、カルステンに行く。この資料を持っていく」と言って帳簿を閉じた。
「助かった。一人で帳簿を見ていた頃には気づけなかった」
礼の言い方が簡素だった。大げさに褒めるのでも、驚いてみせるのでもない。助かった、とだけ言う。あの屋敷で五年間、一度も聞けなかった言葉だ。同じ仕事をしていたのに、場所が違うだけで、こうも違う。言葉ひとつで、手の重さが変わる。
月末になった。
ニクラスさんが封筒を差し出した。中に銀貨が入っている。
「今月分の給金だ」
受け取った。封筒は薄い。中身は多くない。正規の経理職としては、おそらく標準的な額だろう。私にはその標準が分からない。比較する基準を持っていない。五年間、私の手に渡ったのは食事と寝床だけで、金銭は一銭もなかった。
封筒を持つ手が震えていた。
震えている自分に驚いた。嬉しいのか悲しいのか、それすら分からない。ただ、この薄い封筒の重さが、五年間の空白と釣り合わないことだけは分かる。五年間を取り戻す額ではない。けれどこの封筒は、私がした仕事に値段がついたという証明だ。値段がつく。それだけのことが、なぜこんなに手を震わせるのか。
「五年間、私がしていたことには値段がつかなかったので。」
その言葉が口から出ていた。言うつもりはなかった。ニクラスさんが私を見ている。私の手の震えも、声の揺れも見えているだろう。
ニクラスさんは何も訊かなかった。
理由を尋ねない。「大丈夫か」とも「何があったんだ」とも言わない。代わりに、来月の帳簿の準備についての書類を渡し、「来月もよろしく頼む」と言った。
詮索しない。その距離の取り方が、今の私にはちょうどいい。泣いている理由を訊かれたら、答えなければならない。答えるには、あの五年間を言葉にしなければならない。まだ、言葉にする力がない。
叔母の店に戻ると、封筒を見せた。
「初めての月給だよ。何か買いなさい。自分のものを」
自分のもの。何を買えばいいのか、すぐには出てこなかった。あの屋敷では、使用人の必要品を手配し、義母の薬を注文し、取引先への菓子折りを選んだ。全て他の誰かのための買い物だ。自分のために何が欲しいか、と問われて、答えが浮かばない。
「何でもいいんだよ。高いものじゃなくていい。あんたが、あんたのために選ぶものなら」
叔母はそう言って、店番に戻った。追い立てるでも、付き添うでもない。選ぶのは私の仕事だ、と言外に伝えている。あの屋敷では、誰も私に「自分で選びなさい」と言ってくれなかった。
市場に出た。港町の市場は賑やかだ。布や果物や魚や日用品が所狭しと並んでいる。私は露店の間をゆっくり歩き、布の端切れを見て、果物を見て、石鹸を見て、通り過ぎた。どれも必要だが、どれも「欲しい」とは違う。必要なものなら、あの屋敷でもいくらでも買った。義母の薬、使用人の消耗品、取引先への菓子折り。買い物は得意だ。ただし、全て誰かのための買い物だった。自分のために何が「欲しい」のか、その問いに答える筋肉が、五年間使われていなくて動かない。
木工の露店で、小さな櫛が目に留まった。
柘植の木を削って作った、手のひらに収まる大きさの櫛。飾り気はない。歯の間隔が均一で、持ち手の角が丁寧に丸めてある。安い品物だ。銅貨数枚で買える。
あの屋敷では、髪を梳くのに使っていたのは義母の古い櫛だった。先代の奥様の部屋には入れなかったから、自分の櫛を持ち込む機会もなかった。義母が「もう使わないから」と寄越した、象牙の柄が欠けた古い櫛。高価な品だが、人の手垢がついている。あの櫛で髪を梳くたびに、ここは私の場所ではないと思っていた。思っていたことに、今さら気づく。
柘植の櫛を手に取った。軽い。歯を指で弾くと、乾いた音がする。誰の手垢もついていない。
「これを、ください」
銅貨を払い、櫛を受け取った。包んでもらう必要はない。手に持って歩いた。たった銅貨数枚の木の櫛が、封筒の銀貨より重く感じる。
二階の小部屋に戻り、窓辺に座った。
髪を結っている紐をほどく。結い上げた髪が肩に落ちる。あの屋敷では、髪を下ろすのは寝る前だけだった。それも急いで梳いて、急いで結って、翌朝の段取りを書いて眠る。髪を梳く時間は、段取りの合間にねじ込む作業でしかなかった。
柘植の櫛を髪に通した。
引っかからない。安い櫛なのに、歯の通りがいい。毛先までゆっくり引くと、潮風で少し乾いた髪が手の中で揺れる。窓から夕日が差している。港の水面が光って、部屋の壁にゆらゆらと模様を映している。
もう一度、梳いた。根元から毛先まで、ゆっくりと。急ぐ必要がない。明日の献立を考えなくていい。使用人の休日を確認しなくていい。義母の薬を数えなくていい。この時間の全てが、私のものだ。
これが、自分のために使うお金だった。自分の手で稼いだお金で、自分の櫛を買って、自分の髪を梳いている。それだけのことが、涙が出るほど重い。
泣いてはいない。泣いてはいないが、呼吸が深くなっている。胸の底に溜まっていた何かが、櫛の歯を通すたびに少しずつ梳けていくような気がする。五年分の、誰にも見られなかった時間が、一筋ずつ手の中を通り抜けていく。
翌朝、商会に出ると、ニクラスさんが帳場で書類を広げていた。私が帳場に座ると、ニクラスさんがこちらを見た。
「その櫛、新しいな。」
「初めて自分で買いました。」
ニクラスさんは少しだけ目を細めた。笑ったのかもしれないし、眩しかったのかもしれない。それから何も言わず、カルステン商店との交渉に持っていく資料の確認を渡した。
私はそれを受け取り、帳簿を開いた。柘植の櫛で梳いた髪は、昨日より少しだけ軽い気がする。
自分の櫛で、自分の髪を梳いた。ただそれだけのことが、五年分の答えだった。




