第5話 あいつは聞き分けが良かったんじゃない
朝食の卵が、固い。
以前はこうではなかった。半熟で、殻を割ると黄身がちょうど良い柔らかさで出てくる。それがいつからか固茹でになり、パンは冷め、スープの塩加減がばらつくようになった。
以前。あいつがいた頃のことだ。
あいつが台所の段取りをしていたことは、最近になって知った。献立を書き、調味料を補充し、厨房のエルザに調理の要望を伝える。それを毎日、毎朝、使用人より早く起きてやっていた。俺はそれを知らなかった。卵が半熟で出てくるのは、エルザが気を利かせているのだと思っていた。違う。あいつの指示だ。指示といっても命令ではない。覚書に「旦那様は半熟をお好みです」と一行書いてあった、とエルザが教えてくれた。
俺は自分の卵の好みを、妻に伝えた記憶がない。あいつが勝手に覚えたのだ。覚えて、書き残して、去った。
午前中、ハンスが報告に来た。
「取引先がさらに三件、掛売りを停止いたしました。仕立屋と薬種屋、それから馬車屋です」
「先月も三件止まっただろう。合わせて六件か」
「はい。薬種屋は義母様のお薬の納品元でございます。奥様が直接やり取りをされていた先で、私どもとは面識がございません」
面識がない。屋敷の取引先と、家令の面識がない。それ自体がおかしいことだと、俺はようやく気づき始めている。あいつが全部やっていたから、ハンスが取引先と顔を合わせる必要がなかった。ハンスの仕事を奪っていたわけではない。ハンスの前に立って、全てを受けていた。風除けのように。風除けがなくなった今、風は直接ハンスに当たり、ハンスは立っていられない。
「立て直せるか」
「掛売りの再開には、月末の帳合いを済ませ、未払い分を清算する必要がございます。ただ、帳簿の記帳方式が奥様独自のもので、解読に時間がかかっております」
「解読、か」
あいつの帳簿が「解読」の対象になっている。俺はその帳簿を一度も開いたことがない。帳簿くらい誰でもつけられる、と言ったのは先月の俺だ。あの言葉が、喉の裏に貼りついて剥がれない。
昼過ぎ、台所に降りた。
家令や侍女が驚いた顔をしている。俺がこの屋敷の台所に入るのは、五年間で初めてかもしれない。いや、初めてだ。ここはあいつの場所だった。正確には、あいつが場所にしていた空間だ。もとは誰の管轄でもなかった台所を、あいつが棚を整理し、覚書を貼り、動線を作り、自分の持ち場に変えた。誰に頼まれたわけでもなく。
棚に紙が貼ってある。調味料の配置図。壺の蓋に略号が書いてある。仕入れ先の名前と注文周期が、壁の板に画鋲で留めてある。全部、あいつの字だ。小さくて丁寧で、読みやすい。この台所はあいつの設計図で動いている。設計した人間がいなくなった今、図面だけが残って、図面を読める者がいない。
台所の隅に、マルタが立っていた。
「マルタ。奥様はどうやってこの屋敷を回していたんだ」
少し間を置いてから、マルタは棚の奥から覚書の束を慎重に取り出した。十冊近い。献立、仕入れ先、使用人の休日、義母の薬、客間の備品、庭の手入れ、季節ごとの行事。一冊ずつ、別の領域を管理している。
「旦那様はこの覚書を、一度もご覧になりませんでした。」
その声は平たかった。責めてはいない。事実を言っている。事実はときに責められるより痛い。
一冊手に取って開いた。使用人の休日の覚書だ。名前の横に、希望日と理由が書いてある。「エルザ:月の第二週の水曜日。娘の誕生日」「ハンス:不定期。腰の治療」。あいつは使用人の家族の誕生日まで把握していたのか。俺は使用人が何人いるかさえ、正確には答えられない。
別の一冊を開く。義母の薬の管理簿だ。薬の名前、用量、残りの日数、次の届け日、医師への連絡日。几帳面な表が頁を埋めている。あいつはこれを、義母に蔑まれながら続けていた。蔑んだ人間の薬を管理するとは、どういう気持ちなのか。俺には分からない。分からないということが、今は少しだけ恥ずかしい。
もう一冊。客間の備品の覚書。来客ごとに好みの茶器が記録してある。ブランケンブルク卿は薄手の磁器を好む。ヘーゲンドルフ夫人には花柄を避ける。なぜ花柄を避けるのかまで注記がある。夫人の亡くなった長女が花柄を好んでいたから、と。来客の傷に触れないための配慮を、あいつは茶器の選び方で実行していた。俺はその茶器を使いながら、理由を考えたことは一度もない。
あいつは、どこまで見ていたのだ。
覚書を閉じて、窓の外を見た。庭の植え込みが少し伸びている。あいつがいた頃は、いつも同じ高さに揃っていた。揃えていたのは庭師だが、庭師に手入れの周期を指示していたのは、あいつだ。
書斎に戻り、椅子に座って、天井を見た。
あいつは聞き分けが良かった。俺が何か言えば頷き、反論せず、黙って引き下がる。それを俺は「穏やかな妻」だと思っていた。母が「もっと良い家の娘を」と繰り返しても、あいつは何も言わない。俺もまた、母を止めなかった。止める理由がないと思っていた。あいつが怒らないのだから、平気なのだろう、と。
違う。
あいつは聞き分けが良かったんじゃない。俺の話を聞いても仕方がないと思っていたんだ。
何を言っても変わらない相手に、何を言う意味がある。あいつは俺を見限っていたのかもしれない。見限って、それでも覚書を書き続けた。離縁の朝まで。見限った相手の屋敷のために、半熟卵の好みまで書き残す。その行為の名前を、俺はまだ知らない。
そこまで考えて、俺は自分が何を感じているのかを探った。怒りではない。寂しさでもない。居心地が悪い。自分がずっと座っていた椅子の下に、誰かが黙って敷いていた座布団を引き抜かれた。そういう感覚だ。座布団の存在を知らなかった自分が、今さら座り心地の悪さを訴えている。滑稽だろう。滑稽だと分かっていても、尻が痛い。
だが俺はまだ、こう言い換えてしまう。あいつの能力を見誤っていた、と。
能力。その言葉で片づけてしまえば、俺は「判断を間違えた上司」で済む。あいつを一人の人間として見ていなかったとは、まだ言えない。言えば、この五年間の全てが崩れる。崩れた先に何があるのか、俺にはまだ見えない。見る覚悟もない。
覚書の最後の頁を開くと、日付はあの朝のものだった。書かれていたのは、一週間分の献立と、使用人の休日の希望と、義母の薬の残数だった。




