第4話 この帳簿の誤差を、半日で見つけたのですか
港町の朝は、あの屋敷とは匂いが違う。
潮と魚と、干した麻布の匂い。叔母のイルマが営む雑貨店は港の通りに面していて、店先を開けると海風が帳場まで入ってくる。私は二階の小部屋を借りて、十日ほどになる。
小部屋には寝台と小さな棚と、窓がひとつ。窓を開けると港の桟橋が見える。荷揚げの声と、鷗の鳴き声と、波が石積みにぶつかる音。あの屋敷の朝は静かだった。廊下の時計の音と、私の靴音だけが響く屋敷。ここは騒がしい。騒がしくて、誰も私の靴音を気にしない。その気楽さに、まだ体が追いついていない。
朝は早く起きる。それは変わらない。ただ、起きてから最初にすることが違う。あの屋敷では使用人の段取りを書いた。ここでは自分の寝床を畳む。それだけだ。誰のための覚書も書かない。書く必要がない。手が覚書の紙を探して、ない紙面を撫でる。五年かけて身についた癖は、十日では抜けない。
朝食は叔母と一緒に取る。パンと塩漬けの魚と、薄い麦茶。食卓に覚書は置かれていない。叔母は自分の段取りを自分の頭で管理する人だ。
「あんた、また帳面いじってたのかい」
麦茶を注ぎながら叔母が言う。
「お店の帳簿、少し見づらいところがあったので」
「見づらいって、あれは私が二十年つけてきた帳簿だよ」
「ええ。だから、二十年分の記帳のずれが積もっています。放っておいても困りませんが、直せば月末の計算が楽になります」
叔母は黙って私を見た。それから、小さく息を吐いた。
「あんたは五年間、ただ働きさせられてたんだよ。」
その言葉を、私はうまく受け取れなかった。
ただ働き。そう言われれば、確かにそうだ。給金はもらっていない。感謝の言葉も、ほとんど聞いた覚えがない。けれど私は「ただ働き」をしていたという自覚がなかった。あれは嫁の務めだと思っていたから。務めには報酬がつかないものだと、疑いもしなかった。
叔母に言われて初めて、「務め」と「仕事」の境目を考える。同じことをしている。帳簿をつけ、取引先を回り、人を管理する。けれど片方には給金が出て、片方には何も出ない。その違いは、場所と、呼び方だけだ。
「帳簿を直すのが好きなのかい」
「好き、かどうかは分かりません。でも、数字が合わないと気になります」
「そういうのを好きって言うんだよ」
叔母は笑わずにそう言った。好き。その言葉も、五年間あまり使わなかった。好きかどうかを考える余裕がなかった。毎日の段取りを書いて、帳簿を合わせて、義母様の薬を手配して、取引先に菓子折りを届ける。好き嫌いではなく、やらなければ屋敷が回らないからやっていた。
でも、数字が合ったときの静かな安堵は、確かにある。誰にも気づかれなくても。
午後、帳場で帳簿を直していると、店の扉が開いた。
背の高い男が入ってくる。日焼けした顔に、商人らしい鋭い目。外套の仕立ては上等だが、着崩している。叔母とは顔なじみらしく、手を上げて挨拶を交わしている。
「イルマさん、先月の納品分の控えをもらえるか」
「ああ、ニクラスさん。ちょっと待っておくれ」
叔母が奥に引っ込む間、その男は帳場を見た。私ではない。私の手元の帳簿を見ている。
「それ、この店の帳簿か」
「はい。叔母の店の帳簿を少し整理させてもらっています」
男が一歩近づいて、帳場の端に手をつき、帳簿を覗き込んだ。私が直した箇所には、元の数字と修正後の数字を並べて、差額と理由を欄外に書き添えてある。あの屋敷でやっていたのと同じ方式だ。
「この誤差は、仕入れ値の転記ミスか」
「はい。三年前の夏に仕入れ先が変わったとき、旧い単価がそのまま残っていました。以降、毎月わずかに差額が積もっています」
「三年分の累積か。総額はどのくらいになる」
「銀貨四十二枚と八リント。大きな額ではありませんが、帳簿上の在庫と実際の在庫にずれが出ます」
男の目が変わった。帳簿から顔を上げて、初めて私の顔を見る。
「この帳簿の誤差を、半日で見つけたのですか」
「見つけたというより、数字の流れを追っていたら辿り着きました」
男はしばらく黙って、それからもう一度帳簿に目を落とした。欄外の注記を一つずつ読んでいる。仕入れ先の変更時期、単価の変動幅、累積誤差の総額。私は何も隠していない。帳簿の悪さを指摘したかったわけではなく、直す手順を書いただけだ。
ただ、男の読み方は速かった。数字を追う目の動きに迷いがない。この人も帳簿を読む人間なのだと分かる。
叔母が奥から納品控えを持って戻ってきた。男は控えを受け取り、帳場の私にもう一度目を向けた。
「ベーレンシュタイン商会のニクラスだ。失礼だが、名前を聞いてもいいか」
「エーデルです。イルマ叔母のところに厄介になっています」
「エーデルさん」
男の口調は変わらなかった。同情も詮索もない。名前を確認した、という声だ。
「うちの商会の帳簿を見てくれないか。報酬は正規の経理職として払う。」
帳場の空気が止まった。叔母が私を見ている。男は私を見ている。私は帳簿の、自分が書いた欄外の注記を見ている。
「報酬、ですか。」
自分の声が、自分のものに聞こえなかった。報酬。正規の。経理職として。
それは五年間、一度も私の耳に届かなかった言葉の組み合わせだ。あの屋敷で帳簿をつけ、取引先を回り、覚書を書き、使用人の段取りを整えた。それは全て「嫁の務め」であり、「家事」であり、「あの程度の家の娘には当然の奉仕」だった。報酬という言葉が存在する場所に、私の仕事は置かれていない。五年間、ずっと。
「少し、考えさせていただけますか」
「構わない。来週また来る。それまでに返事をくれればいい」
男は外套を直して、扉から出ていった。潮風が一瞬だけ帳場に入り込み、帳簿の頁がめくれる。
叔母が何か言おうとして、やめた。私の顔を見て、やめたのだろう。自分がどんな顔をしていたのか、私には分からない。
帳場に残った帳簿を閉じて、棚に戻す。手が少しだけ震えている。怖いのだ。報酬をもらうということは、その仕事に値段がつくということで、値段がつくということは、足りなければ断られるということだ。あの屋敷では断られることはなかった。報酬がない代わりに、評価もない。値段のない場所は楽だった。苦しかったけれど、楽だった。
窓の外で鷗が鳴いている。港の風は、今日も私の靴音を気にしない。
報酬、という言葉を、私は五年ぶりに聞いた。いや、違う。聞いたことがなかったのだと、今ようやく気がついた。




