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侍女が一人もついてこなかったと聞いて、あの人は笑ったそうです  作者: 九葉(くずは)


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第2話 旦那様、肉屋が掛売りを断ってまいりました

 肉屋の使いが帰った。

 盆の上には、注文の品の代わりに白い紙が一枚載っている。掛売りの停止通知。文面は短い。「月末のお帳合いが未了のため、掛売りを一時停止いたします」。二十年この屋敷に仕えて、肉屋から掛売りを断られたのは初めてのことだった。


 使いの若者は申し訳なさそうに「月末のお帳合いが済んでいないので、親方がこれ以上は出せないと」と言い残して去った。月末の帳合い。私の知らない言葉ではない。だが、その帳合いを誰がやっていたのかと問われれば、私はすぐに答えられない。


 答えは分かっている。奥様だ。

 奥様がいなくなって、まだ十日。台所に掛売りの拒否が届くまで、それだけの日数しかかからなかった。


 帳簿を出した。

 台所の棚にある掛売り帳を手に取るのは、二十年間で初めてのことである。革の表紙は奥様の手の油で少し黒ずんでいる。毎月この帳簿を開いていた手の跡だ。


 開いて、閉じた。

 何が書いてあるのかが分からない。取引先の名前、品目、金額、支払い日。それぞれの欄は整然と埋められているが、数字の横に奥様が独自に書き加えた略号がある。丸印、三角、波線。何を意味するのか、どこにも凡例がない。奥様の頭の中にしかなかった体系が、帳簿の上に広がっている。


 凡例がないのは、凡例を必要とする人間がいなかったからだ。この帳簿を読むのは、いつも奥様だけだった。


 午後になり、洗濯屋の主人が直接訪ねてきた。

「奥様は、もうこちらにはいらっしゃらないのですか」

 私が離縁の事実を告げると、主人は少し黙ってから言った。


「でしたら、来月からは現金でお願いいたします。奥様のお顔で掛けておりましたので」

 奥様の顔で。屋敷の名ではない。旦那様の名でもない。


 花屋からも同じ日に連絡があった。月初めに翌月分の花を相談する約束が果たされていない、と。玄関の花瓶、客間の飾り花、義母様の居室の切り花。毎月変わるそれらの手配を、私は花屋が自分の判断でやっているものだと思い込んでいた。奥様が毎月打ち合わせをしていたことも、花の種類を季節と来客の予定に合わせて選んでいたことも、今日になって初めて知る。

 一日で三軒。掛売りの停止が、三軒。


 旦那様の書斎に報告に上がった。

「肉屋と洗濯屋が掛売りを停止しております。花屋からも連絡がございました。いずれも奥様が月末にお帳合いをなさっていた取引先で、その引き継ぎがまだ」

「帳簿くらい、誰でもつけられるだろう。」

 旦那様は書類を読みながらそう仰った。目はこちらを見ていない。


「お前がやればいい。家令の仕事だろう」

 家令の仕事。確かに、帳簿の管理は家令の職務に含まれる。含まれているはずだった。けれどこの五年間、その職務は私の手を離れ、奥様の手の中にある。私が頼んだわけではない。奥様が、誰に言われるでもなく始めていた。私はそれに気づかなかった。気づかないほど、滑らかだった。


 私が手を出す前に、全てが片づいている。それが五年間続いた。私は自分の仕事が消えたことにさえ気づけなかった。家令としての二十年のうち、最後の五年は空洞だった。その空洞を埋めていたのが、持参金の少ない子爵令嬢だ。


 夕方、台所で侍女のマルタと顔を合わせた。

「マルタ、月末の帳合いと菓子折りのことは知っていたか」

「ええ。奥様が毎月、半日かけて回っていらっしゃいました」

「なぜ私に言わなかった」

 マルタは少し考えてから答えた。

「ハンスさんが訊かなかったからです」


 返す言葉がない。訊かなかった。二十年この屋敷に仕えて、五年間奥様が何をしていたか、一度も。


 マルタが棚から覚書を一冊出して、私の前に置いた。表紙に「取引先」と書いてある。開くと、店ごとに頁が分けてあり、支払い日だけでなく、主人の性格や過去の行き違いまで記されている。仕立屋の主人は前任の家令に横柄な口をきかれて以来、リヒテンフェルト家を警戒している。だから奥様が直接出向くことにした、と。前任の家令とは、私のことだ。


「この覚書、いつ書かれたものだ」

「奥様が嫁いでいらした年の冬からです。最初はもっと薄い帳面でしたが、年を追うごとに厚くなっていきました」 


 五年分の厚み。私がこの覚書の存在を知ったのは、奥様がいなくなった翌日のことだ。

 あの方がいらしたとき、私はただの一度も、帳簿を開いたことがなかった。


 夜、もう一度帳簿を開いた。今度は最初の頁ではなく、末尾から。奥様の字で、月ごとの帳合い結果が並んでいる。どの月も、支払いの遅延はゼロ。取引先からの苦情もゼロ。五年間、六十回の帳合い。一度も欠けていない。


 帳簿の隅に、取引先を訪ねた日の天候まで書いてある。雨の日は「傘を持参。花屋の前の道がぬかるむため迂回」とある。そこまでやっていたのか。そこまでやっている人を、この屋敷の誰も見ていなかった。

 帳簿の末尾に、奥様の字で小さく書いてあった。「ハンスさんへ、月末の手順書は棚の三段目です」

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