第1話 離縁の朝に、奥様は洗濯物を干してから出ていかれました
奥様が起きていらした。
それ自体は珍しいことではなかった。リヒテンフェルト家の奥様——エーデル様は、どの使用人より早く台所に立つ方だった。私たち使用人が起き出す頃には、一日分の献立と買い出しの覚書が食卓に置かれている。五年間、一度も途切れなかった。
だから今朝も、私は覚書の内容を確認してから自分の支度を始めた。豚の肩肉と根菜の煮込み、パンは昨日の残り、義母様の薬湯は午前のうちに煎じておくこと。いつもと同じ、丁寧な文字だった。
ただ、今朝は一つだけ違う。
覚書の日付が、七日後までの分だった。
台所の裏手に出ると、奥様が洗濯物を干していた。
使用人の仕事着である。昨夜のうちに洗って絞り、まだ薄暗い庭の物干しに一枚ずつ広げている。風が吹くと白い布が揺れ、奥様の手が押さえる。結い上げた髪から、後れ毛が一筋、頬にかかっている。
今日という日を、私はすでに知っている。
昨晩、旦那様が書斎で奥様に告げたのだ。離縁する、と。部屋の外に声は漏れない。けれど使用人の間では、朝までに全員が知っていた。こういうことは足音で分かる。旦那様の書斎から出た奥様の靴音が、いつもより少しだけ遅い。ただそれだけのことで、私たちには十分だった。
けれど奥様は泣いていない。今朝も変わらず、台所に覚書を置き、洗濯物を干している。干しているのは、奥様ご自身の服ではない。私たちの仕事着だ。
留め具にかけるとき、奥様の指先が布の端を丁寧に伸ばす。皺が残らないように。五年間、毎朝見てきた手つきである。その手つきが今日で最後になることを、あの指は知っているのだろうか。
私は声をかけようとして、やめた。何と言えばいい。お体に気をつけて、という言葉が喉まで来て、飲み込んだ。あまりにも奥様の手が日常だった。いつもと同じ手つきで、いつもと同じ仕事着を干している。離縁の朝に。
物干しに並んだ白い布が風を受けて膨らみ、朝の光を透かす。奥様はそれを一度だけ見上げてから、裏口に戻った。足取りは静かで、少しも急いでいない。
荷物は革鞄がひとつだけだった。
玄関に置かれたそれを見たとき、五年という時間の重さと、革鞄ひとつの軽さが、うまく重ならない。奥様はあの屋敷のどの部屋にも自分の装飾品をほとんど持ち込まなかった。客間を自室にしていたのは、義母様のヘルミーネ様が「先代の奥様の部屋には入らないで」と仰ったからだ。五年間、奥様はその約束を一度も破らなかった。
破らなかったのではなく、もとより自分の場所だと思っていなかったのかもしれない。客間には奥様の持ち物がほとんどなかった。小さな裁縫箱と、覚書を書くための筆記具。寝台の脇に一冊だけ帳簿がある。それで全部だった。
馬車が門の前に着いた。御者台には、出入りの馬車屋の老人が座っている。実家の迎えではない。奥様が自分で手配されたのだろう。いつものように、誰にも手間をかけず。
侍女は、誰もついていかない。
正確に言えば、奥様は誰にも声をかけなかった。「一緒に来てほしい」とも、「見送りは不要です」とも言わない。ただ鞄をひとつ持って、門まで歩いただけだ。私たちは台所の窓からそれを見ていた。庭の物干しには、奥様が干した仕事着がまだ揺れている。
「馬車の用意ができました」
私が門前で申し上げると、奥様は少し振り返って頷いた。
「ありがとう、マルタ。棚の三段目に、帳合いの手順書を入れてありますから」
帳合いの手順書。出ていく朝に残す言葉が、それだった。
奥様は馬車に乗り込み、幌が閉じた。御者が手綱を取り、車輪が砂利を踏んだ。門を出て、並木道を曲がり、見えなくなった。
私は屋敷に戻り、書斎の扉を叩いた。二度叩いて、返事を待つ。中から、紙をめくる音がする。
「旦那様、奥様の馬車が見えなくなりましたが。」
「ああ、それで?」
旦那様は書類から目を上げなかった。窓の外には、奥様の馬車が通った砂利道がまだ見えている。旦那様の書斎の窓からなら、並木道の先まで見渡せるはずだった。一度も、そちらを向かなかった。
台所に戻ると、他の使用人たちが黙って仕事を始めている。厨房のエルザが「今日の献立はどこ」と訊き、私は食卓の覚書を指した。エルザがそれを読み、何も言わずに鍋に火をかけた。
昼前に、棚の三段目から帳合いの手順書を出した。奥様の字で、月末にどの店にいくら払い、どの順番で菓子折りを届けるかが書いてある。肉屋、洗濯屋、花屋、仕立屋、薬種屋。名前の横に、それぞれの店主の好みまで添えてあった。肉屋の主人は甘いものが苦手だから焼き菓子ではなく干し果物にする、と。花屋には月の初めに翌月分の花を相談しておくこと、と。
私はそれを読みながら、五年間、月末になるたびに奥様が一人で出かけていたことを思い出した。「お使いに行ってまいります」と言って、半日がかりで戻ってくる。私たちは「奥様は買い物がお好きなのだろう」と勝手に思っていた。あれは買い物ではない。この屋敷の信用を、一軒ずつ足で繋ぎ止める仕事だった。
掛売り帳を開いた。奥様の字で、取引先ごとの支払い日、掛売り限度額、信用の注意点が細かく記されている。最後の記入は三日前。月末の帳合いは、出ていく前に済ませてあった。
次の月末、この帳合いを誰がやるのか。覚書のどこにも書いていなかった。書けなかったのだろう。それは「私の代わりにこの仕事をする人」を指名することであり、奥様にはその権限がなかった。
夕方、義母様の薬湯を煎じようとして、薬棚の配置が分からないことに気づいた。奥様がいつも用意していたので、どの壺にどの薬草が入っているのか、私は知らなかった。棚に小さな紙が貼ってある。奥様の字で、壺の中身と分量と煎じ方が書いてあった。最後の行には「残りは二週間分です。医師のグレーフェ先生に連絡済みですので、届くはずです」とあった。
自分を追い出した義母の薬を、出ていく前に二週間分整えて、医師への連絡まで済ませておく人。
その人を、旦那様は「ああ、それで?」と見送った。
夜になり、使用人たちが引き揚げてから、私は台所の棚をもう一度調べた。奥様は几帳面な方だった。覚書が他にもあるかもしれない。
調味料の配置図。客用食器の管理簿。庭の植え込みの手入れ日程。使用人の休みの希望一覧。次から次へ出てくる。全部、奥様の字だった。
奥様は、私たちがいつか困らないように、全部紙に残していた。
いつか。それは、今日のことだったのだ。
棚の奥に、奥様の覚書がもう一冊あった。表紙には、私たち使用人の名前が並んでいた。




