干渉する記憶
あれから、日常が少しずつ変わり始めた。
大きな変化ではない。
だが、確実に“何か”がずれている。
最初に気づいたのは、音だった。
誰もいないはずの部屋で、
足音のようなものが聞こえる。
振り向いても、何もいない。
だが、ほんの一瞬、
「自分が立っていた気配」だけが残る。
それが一度や二度ではなかった。
次に起きたのは、記憶の混線だった。
朝、いつものようにコーヒーを淹れた。
その瞬間、奇妙な違和感に襲われる。
——これは、やっていない。
だが同時に、確かにやったという感覚もある。
二つの記憶が、同時に存在している。
カップを持つ手が止まる。
ほんの数秒の出来事。
だが、その数秒が、現実を歪ませるには十分だった。
「……始まっていますね」
研究者の言葉が、頭の中でよみがえる。
——観測されてしまっている。
その意味が、少しずつ分かってきていた。
そして、その日の夜。
決定的な出来事が起きた。
鏡の前に立ったときだった。
何気なく、自分の顔を見る。
いつもと変わらない。
——はずだった。
一瞬だけ、動きが遅れた。
自分が顔を上げたあとに、
鏡の中の自分が、少し遅れて同じ動きをする。
時間が、ずれている。
いや——
“別の動き”が重なっている。
思わず、鏡に近づく。
そのときだった。
鏡の中の自分が、
——こちらを見ていなかった。
視線が、わずかに横を向いている。
ありえない。
だが確かに、そう見えた。
「……おい」
声を出す。
鏡の中の自分は、ゆっくりとこちらを見た。
その動きは、自分よりも一瞬遅れている。
そして——
口が動いた。
声は聞こえない。
だが、はっきりと分かった。
「まだ、そっちか」
そう言っていた。
背中に冷たいものが走る。
次の瞬間、鏡の中の動きは元に戻っていた。
何事もなかったかのように。
だが、もう誤魔化せなかった。
これは、ただの錯覚ではない。
“もう一人”が、いる。
しかも、それは——
自分を認識している。
震える手で、電話を取る。
研究者の番号を押す。
数回のコールのあと、すぐに繋がった。
「もしもし」
「……出てきた」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
だが、研究者はすぐに理解したようだった。
「どこで?」
「鏡の中で……」
少しの沈黙。
そして、低い声でこう言った。
「予想より早いですね」
嫌な予感が、胸に広がる。
「どういうことですか」
「あなたの状態は、“干渉”に移行しています」
「干渉……?」
「複数の結果が、互いに影響を与え始めている状態です」
言葉の意味が、ゆっくりと沈んでくる。
「つまり——」
研究者は、はっきりと言った。
「もう一人のあなたが、こちら側に近づいている」
その瞬間。
背後で、音がした。
ゆっくりと振り向く。
部屋の奥。
暗がりの中に——
自分と同じ輪郭が、立っていた。




