重なり合う境界
暗がりの中に立っていたそれは、ゆっくりと前に出てきた。
足音はしない。
だが確かに、距離が縮まっている。
——自分だった。
顔も、体格も、立ち方も。
何一つ違わない。
ただ一つ違うのは——
その目だった。
妙に静かで、
どこか“確定している”ような視線。
「……お前は」
声がかすれる。
それは、わずかに口元を動かした。
「やっと会えたな」
はっきりと、自分の声だった。
だが、その言い方には聞き覚えがない。
「何なんだ、お前は」
「分かってるはずだ」
もう一人の自分は、淡々と答える。
「あの時、落ちた方だ」
心臓が強く打つ。
頭では否定したいのに、
体のどこかが、それを受け入れている。
「……生きてるのか」
「さあな」
わずかに笑う。
「少なくとも、お前と同じ意味では生きていない」
理解が追いつかない。
だがひとつだけ、はっきりしていることがあった。
これは幻覚ではない。
「なぜ、ここにいる」
「お前が観測したからだ」
即答だった。
「あの崖で、思い出しただろ」
——思い出すことが観測になる。
研究者の言葉がよみがえる。
「あれで、境界が薄くなった」
「お前と俺の間のな」
一歩、近づいてくる。
無意識に、こちらも一歩下がる。
「来るな」
「怖いか?」
「当たり前だ」
その答えに、もう一人の自分は少しだけ目を細めた。
「でもな」
静かに、続ける。
「これは避けられない」
嫌な予感が、現実味を帯びる。
「どういう意味だ」
「いずれ、一つになる」
空気が止まったように感じた。
「……は?」
「分岐は、長くは保てない」
「観測された状態は、最終的に収束する」
研究者が言っていた言葉と、どこか重なる。
「どちらかが消えるか——」
「混ざるかだ」
背筋が凍る。
「ふざけるな……」
「ふざけてない」
即座に返される。
「俺は、もう分かってる」
「何度もここを通ってきた」
その言葉に、引っかかる。
「何度も……?」
「ああ」
少しだけ遠くを見るような目になる。
「何回かは、お前が消えた」
心臓が止まったような感覚。
「逆もある」
「俺が消えたこともある」
言葉が出ない。
「だから分かる」
もう一人の自分は、まっすぐこちらを見た。
「今回は、まだ決まってない」
「でも時間はない」
一歩、さらに近づく。
手を伸ばせば触れられる距離。
「決めるのは、お前だ」
「観測するか——」
「やめるか」
その言葉と同時に、視界がわずかに歪む。
部屋の輪郭が、揺れる。
二重に見える。
立っている自分と、倒れている自分。
同時に存在している感覚。
「もう始まってる」
低い声で、もう一人が言う。
「次に崖へ行けば、終わる」
風の音が、どこからか聞こえた気がした。
「……終わる?」
「ああ」
「どちらか一つに、なる」
沈黙。
その中で、自分は気づいてしまった。
逃げ場はない。
これは、選ばされる話ではない。
すでに——
「選び始めている」
自分の口から、言葉がこぼれていた。
もう一人は、わずかにうなずいた。
「そういうことだ」




