観測の境界
「一度、現地を見てもらいます」
研究者はそう言った。
それが自然な流れなのかどうか、自分には判断がつかなかった。
ただ、あの写真を見せられたあとでは、
行かないという選択肢も、どこか現実味を失っていた。
数日後。
自分は再び、石切山へ向かっていた。
車を降りた瞬間、妙な既視感に包まれる。
見慣れているはずの景色なのに、どこか“重なっている”ような感覚。
風が吹く。
冷たい空気が、頬に触れた。
「ここから先です」
研究者が先を歩く。
その後ろを追いながら、足元に意識を向ける。
なぜか、慎重になっている自分がいた。
——あの時と同じだ。
理由は分からない。
だが、体だけが覚えている。
やがて、視界が開ける。
崖だった。
記憶の中と、ほとんど変わらない。
その瞬間、呼吸がわずかに乱れる。
「無理はしないでください」
研究者の声が、後ろから聞こえる。
「今日は観測の確認だけです」
観測。
その言葉が、まだ現実感を持たない。
「どういうことをするんですか」
「簡単です」
研究者はそう言って、手帳のような装置を取り出した。
「あなたに、あの時のことを思い出してもらいます」
「そして、その瞬間に何が起きるかを記録する」
それだけだった。
あまりにも単純で、逆に現実味がない。
「……それで分かるんですか」
「ええ」
研究者は、崖の方を見ながら続けた。
「ここでは、“思い出すこと”自体が観測になる可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間、背中に寒気が走る。
思い出すだけでいいのか。
それだけで、何かが起きるのか。
「……やります」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
崖に近づく。
一歩。
足元の感触が、やけに鮮明になる。
もう一歩。
風が強くなる。
——ここだ。
そう思った瞬間、記憶が浮かび上がる。
足元が崩れる。
体が傾く。
落ちる。
——息ができない。
その瞬間。
視界が、揺れた。
いや、違う。
“分かれた”。
自分が、二つに重なる。
立っている自分。
落ちていく自分。
同時に、存在している。
「……見えていますか!」
研究者の声が遠くで響く。
だが、答えられない。
落ちる感覚と、立っている感覚が、同時にある。
どちらが現実なのか分からない。
そのとき——
もう一人の自分が、こちらを見た。
落ちながら。
目が合う。
次の瞬間。
強い衝撃。
背中に、あの痛み。
——息ができない。
「戻ってください!」
研究者の声が、はっきりと聞こえた。
その言葉に引き戻されるように、意識が戻る。
気づくと、自分は崖の上に立っていた。
呼吸が荒い。
手が震えている。
「……今のは」
声がうまく出ない。
研究者は、じっとこちらを見ていた。
「やはりそうか……」
小さくつぶやく。
「あなたは、“両方を観測している”」
「両方……?」
「落ちた結果と、落ちなかった結果」
その言葉が、ゆっくりと理解に落ちてくる。
「本来は、どちらか一方に確定するはずなんです」
「ですがあなたは——」
そこで言葉を止め、静かに続けた。
「まだ、どちらにも属していない」
風が吹く。
崖の下を見る。
一瞬だけ、何かが見えた。
倒れている、自分。
そして——
ゆっくりと、こちらに手を伸ばしていた。




