第9話 亡国の王子、少し慣れる。
帝都の朝は静かだ。
パン屋が窯を開ける匂い。
御者が馬を労う声。
子どもたちが元気に駆けていく姿。
平和な光景を眺めながら今日も職場に向かう。
コンコン。
「入りなさい」
「失礼します」
扉を開けた執務室の中には、完璧な第七皇女殿下がいた。
背筋はぴんと伸び、表情は静か。
髪も整えられ、服装も乱れひとつない。
これが皇族。
これが帝国皇女。
そうだ。
昨日のあれは、やはり疲労が見せた幻覚だったのでは――。
「おはようございます、殿下」
「あら、損した」
入ってきたのが俺であることを確認した瞬間、殿下の背筋が半分くらい崩れた。
具体的には、ぴしっとしていた肩が落ち、頬杖をつき、片手で書類をめくりながら、もう片方の手で小さくあくびを隠した。
幻覚ではなかった。
昨日のあれは現実だった。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
「はい。おかげさまで」
「そう。私は眠い」
「でしょうね」
「不敬」
「申し訳ございません」
「冗談よ」
ちょっと笑いながら、殿下は机の上の書類に視線を落とす。
だらけている。
だが、仕事はしている。
頬杖をついたまま、書類の端に印をつけ、別の紙を横へ流す。
「リズ。これ、昨日の名簿の訂正。ボルマン伯の借金先、南方商会じゃなくて、南方商会の傘下の金融組合ね」
「はいはい。確認して直しておきます」
「あと、こっちの招待状は保留。差出人は奥方だけど、文面はたぶん本人じゃない」
「筆跡ですか?」
「句読点」
「なるほど」
殿下は眠そうな顔のまま、書類を一枚、二枚、三枚と処理していく。
だらけているのに速い。
これはこれで怖い。
「……殿下」
「なに?」
「その姿勢で仕事が進むんですね」
「姿勢と能力は関係ないわ」
「皇族としての威厳は」
「今、部屋にあなたとリズしかいないじゃない」
「なるほど」
つまり、ここでは威厳は休憩中らしい。
皇族の威厳にも勤務時間があるのか。
信頼されている。
たぶん。
それはありがたい。
ありがたいが、俺はまだ心の準備ができていない。
コンコン。
ノックの音が響いた瞬間、殿下の姿勢が変わった。
背筋。視線。表情。全部が、一瞬で「第七皇女」に戻る。
残像が見えそうなくらい速い。
「入りなさい」
声まで違う。
すごい。
変身魔術か?
「失礼いたします」
入ってきたのは、財務局の書記官らしき中年男性だった。
書類束を抱え、丁寧に頭を下げる。
「エレオノーレ殿下。先日の備品費申請について、確認事項がございまして」
「そう」
「こちらの増額理由なのですが、通常より少々多く見受けられます」
「秘書官」
あ、はい。
「こちらを。先月、南側通路の灯火器具を更新しております」
「はい。ただ、その費目は修繕費に含まれるのではと」
「修繕費では不足したのでしょう?」
「……はい」
「では、そちらの不備では?」
「し、失礼いたしました」
「それと、警備詰所への備品補充も含まれております。お手数ですが、そちらも確認願います」
「かしこまりました」
「以上でしょうか?」
「は、はい。失礼いたしました」
書記官が退室し、扉が閉まった瞬間、殿下の肩からまた力が抜ける。
切り替えが早い。
役者になることをお勧めする。
「何か失礼なこと考えてない?」
なぜかドヤ顔でこちらを見てくる殿下だけど。
「考えておりません」
「ほんと?」
「本当です」
「じゃあ、褒めなさい」
なんでだよ。
「……見てて惚れ惚れするレベルの切り替えの上手さです」
「褒めてる?」
「褒めてます」
「ならよし」
殿下は少しだけ満足そうに頷き、また書類へ視線を落とした。
褒めると機嫌が良くなる。
なんというか。
昨日までの完璧な皇女から、少し面倒くさい皇女になった気がする。
いいことだと俺は思う。
「ロビン、こっちもお願い」
そんなことを考えている隙にも、リズが追加の書類を増やしていた。
「増えた」
「仕事だから」
「一人分じゃなくない?」
「気のせいよ」
絶対に気のせいじゃない量の書類を受け取り、ため息を飲み込む。
昨日の夜会関係の報告の整理がメインだったからだ。
誰と誰が話した。
誰が誰を避けた。
誰が俺を見て気の毒そうな顔をした。
――なに、最後の分類?
「リズ、この『気の毒そうに見ていた者』って分類、なに?」
「新しい秘書官がどの程度同情されているか、宮廷内での立ち位置を見る指標になるわ」
「俺は世論調査の対象なの?」
「大丈夫。思ったより好感度は高いわ」
「嬉しくない」
「少なくとも、『三日で辞める』派と『一週間で辞める』派が多いから、今週いっぱい出勤すれば評価が上がるわよ」
「評価の基準が低い」
俺は何のために首席で官吏試験に受かったのだろう。
首席合格者の最初の目標が「三日で辞めない」なの、だいぶおかしい。
ん?
てことは。
「リズ、もしかして」
「何?」
「俺が辞める日で賭けてる人、皇城にもいる?」
「いるわよ」
「いるんだ」
「ちなみに私は一か月に賭けているわ」
「同僚に賭けるな」
「信頼しているのよ」
「賭け金で信頼を表現しないで」
この国の人間、すぐ賭ける。
麦穂亭の常連もそうだった。
皇城もそうなのか。
……帝国、大丈夫か。
「殿下は?」
「私は賭けていないわ」
エレオノーレ殿下が肘をついた姿勢で楽しそうにこちらを見やる。
皇族まで把握してる賭けとかやめてくれ。
というか殿下、結構表情豊かですね。
「ありがとうございます」
「賭けが成立しないもの」
「はい?」
「だって、私が当てたければその日にクビにすればいいだけだし」
「……」
なんで、その発言をすっごいドヤ顔でするんですか、殿下?
というか、それは反則じゃない?
リズが笑っている。
殿下の表情も柔らかい。
第七皇女宮の日常は、どうやら思っていたより平和らしい。
いや、平和ではない。
ただ、空気は悪くなかった。
少なくとも、昔の王宮で感じていたような、息が詰まる緊張ばかりではない。
エレオノーレ殿下がいて。
リズがいて。
来客があると、殿下がピシッとして。
また、だらける。
……少し楽しいと思ってしまった。
情で縛られるタイプだとリズに言われたばかりなのに、すでに少し縛られている気がする。
非常に危険である。
◇
夕方。
その日の仕事は驚くほど平和だった。
「今日はもういいわ」
エレオノーレ殿下が最後の書類に印を押しながら言ってくれる。
「ありがとうございます」
ありがたい、今日も定時に近い時間で上がれる。
悪くない。
これなら、城勤めだとしても平穏に生きていける気がする。
皇城の廊下を抜け、門を出て、帝都の道を歩く。
夕方の風が心地いい。
屋台からは良い匂いがする。
働いた後の街の空気は、やはりいい。
今日も麦穂亭に食べに行ってもいいかもしれない。
アンナちゃんは癒やしだし。
なんだかんだ給料は悪くないし。
「よし、いったん宿に寄って着替えたら麦穂亭行くか」
そう決めて、少しだけ軽くなった足取りで宿へ向かう。
――しかし。
「……ん?」
宿の前に人だかりができていた。
なんだ?
誰か酔っ払いでも暴れたか?
いや、それにしては人が多い。
妙にざわついている。
入り口の前に、荷物を抱えた宿泊客が何人も立っている。
主人が青い顔で頭を下げている。
嫌な予感がする。
「あ、ロビンくん……!」
宿の主人が俺に気づいてくれたが、ものすごく申し訳なさそうな顔だった。
それだけで、何が起きているかだいたいわかってしまった。
わかりたくなかった。
「……何かあったんですか?」
「今日は、その、部屋が……」
「部屋が?」
「使えなくなっちまって……」
――うん。
空を見上げる。
帝都の空は、夕焼けで赤かった。
綺麗だった。
とても綺麗だった。
ジルベルト殿下。
あなた、そんなに暇なんですか?




