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亡国の王子ですが、のんびりしようと下級官吏になったら、なぜか昼行燈と噂の第七皇女の秘書官になりました  作者: 萩原詩荻
第一章 第六皇子 ジルベルト殿下

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第9話 亡国の王子、少し慣れる。

 帝都の朝は静かだ。


 パン屋が窯を開ける匂い。


 御者が馬を労う声。


 子どもたちが元気に駆けていく姿。


 平和な光景を眺めながら今日も職場に向かう。


 コンコン。


「入りなさい」


「失礼します」


 扉を開けた執務室の中には、完璧な第七皇女殿下がいた。


 背筋はぴんと伸び、表情は静か。


 髪も整えられ、服装も乱れひとつない。


 これが皇族。


 これが帝国皇女。


 そうだ。


 昨日のあれは、やはり疲労が見せた幻覚だったのでは――。


「おはようございます、殿下」


「あら、損した」


 入ってきたのが俺であることを確認した瞬間、殿下の背筋が半分くらい崩れた。


 具体的には、ぴしっとしていた肩が落ち、頬杖をつき、片手で書類をめくりながら、もう片方の手で小さくあくびを隠した。


 幻覚ではなかった。


 昨日のあれは現実だった。


「おはよう。昨日はよく眠れた?」


「はい。おかげさまで」


「そう。私は眠い」


「でしょうね」


「不敬」


「申し訳ございません」


「冗談よ」


 ちょっと笑いながら、殿下は机の上の書類に視線を落とす。


 だらけている。


 だが、仕事はしている。


 頬杖をついたまま、書類の端に印をつけ、別の紙を横へ流す。


「リズ。これ、昨日の名簿の訂正。ボルマン伯の借金先、南方商会じゃなくて、南方商会の傘下の金融組合ね」


「はいはい。確認して直しておきます」


「あと、こっちの招待状は保留。差出人は奥方だけど、文面はたぶん本人じゃない」


「筆跡ですか?」


「句読点」


「なるほど」


 殿下は眠そうな顔のまま、書類を一枚、二枚、三枚と処理していく。


 だらけているのに速い。


 これはこれで怖い。


「……殿下」


「なに?」


「その姿勢で仕事が進むんですね」


「姿勢と能力は関係ないわ」


「皇族としての威厳は」


「今、部屋にあなたとリズしかいないじゃない」


「なるほど」


 つまり、ここでは威厳は休憩中らしい。


 皇族の威厳にも勤務時間があるのか。


 信頼されている。


 たぶん。


 それはありがたい。


 ありがたいが、俺はまだ心の準備ができていない。


 コンコン。


 ノックの音が響いた瞬間、殿下の姿勢が変わった。


 背筋。視線。表情。全部が、一瞬で「第七皇女」に戻る。


 残像が見えそうなくらい速い。


「入りなさい」


 声まで違う。


 すごい。


 変身魔術か?


「失礼いたします」


 入ってきたのは、財務局の書記官らしき中年男性だった。


 書類束を抱え、丁寧に頭を下げる。


「エレオノーレ殿下。先日の備品費申請について、確認事項がございまして」


「そう」


「こちらの増額理由なのですが、通常より少々多く見受けられます」


「秘書官」


 あ、はい。


「こちらを。先月、南側通路の灯火器具を更新しております」


「はい。ただ、その費目は修繕費に含まれるのではと」


「修繕費では不足したのでしょう?」


「……はい」


「では、そちらの不備では?」


「し、失礼いたしました」


「それと、警備詰所への備品補充も含まれております。お手数ですが、そちらも確認願います」


「かしこまりました」


「以上でしょうか?」


「は、はい。失礼いたしました」


 書記官が退室し、扉が閉まった瞬間、殿下の肩からまた力が抜ける。


 切り替えが早い。


 役者になることをお勧めする。


「何か失礼なこと考えてない?」


 なぜかドヤ顔でこちらを見てくる殿下だけど。


「考えておりません」


「ほんと?」


「本当です」


「じゃあ、褒めなさい」


 なんでだよ。


「……見てて惚れ惚れするレベルの切り替えの上手さです」


「褒めてる?」


「褒めてます」


「ならよし」


 殿下は少しだけ満足そうに頷き、また書類へ視線を落とした。


 褒めると機嫌が良くなる。


 なんというか。


 昨日までの完璧な皇女から、少し面倒くさい皇女になった気がする。


 いいことだと俺は思う。


「ロビン、こっちもお願い」


 そんなことを考えている隙にも、リズが追加の書類を増やしていた。


「増えた」


「仕事だから」


「一人分じゃなくない?」


「気のせいよ」


 絶対に気のせいじゃない量の書類を受け取り、ため息を飲み込む。


 昨日の夜会関係の報告の整理がメインだったからだ。


 誰と誰が話した。


 誰が誰を避けた。


 誰が俺を見て気の毒そうな顔をした。


 ――なに、最後の分類?


「リズ、この『気の毒そうに見ていた者』って分類、なに?」


「新しい秘書官がどの程度同情されているか、宮廷内での立ち位置を見る指標になるわ」


「俺は世論調査の対象なの?」


「大丈夫。思ったより好感度は高いわ」


「嬉しくない」


「少なくとも、『三日で辞める』派と『一週間で辞める』派が多いから、今週いっぱい出勤すれば評価が上がるわよ」


「評価の基準が低い」


 俺は何のために首席で官吏試験に受かったのだろう。


 首席合格者の最初の目標が「三日で辞めない」なの、だいぶおかしい。


 ん?


 てことは。


「リズ、もしかして」


「何?」


「俺が辞める日で賭けてる人、皇城にもいる?」


「いるわよ」


「いるんだ」


「ちなみに私は一か月に賭けているわ」


「同僚に賭けるな」


「信頼しているのよ」


「賭け金で信頼を表現しないで」


 この国の人間、すぐ賭ける。


 麦穂亭の常連もそうだった。


 皇城もそうなのか。


 ……帝国、大丈夫か。


「殿下は?」


「私は賭けていないわ」


 エレオノーレ殿下が肘をついた姿勢で楽しそうにこちらを見やる。


 皇族まで把握してる賭けとかやめてくれ。


 というか殿下、結構表情豊かですね。


「ありがとうございます」


「賭けが成立しないもの」


「はい?」


「だって、私が当てたければその日にクビにすればいいだけだし」


「……」


 なんで、その発言をすっごいドヤ顔でするんですか、殿下?


 というか、それは反則じゃない?


 リズが笑っている。


 殿下の表情も柔らかい。


 第七皇女宮の日常は、どうやら思っていたより平和らしい。


 いや、平和ではない。


 ただ、空気は悪くなかった。


 少なくとも、昔の王宮で感じていたような、息が詰まる緊張ばかりではない。


 エレオノーレ殿下がいて。


 リズがいて。


 来客があると、殿下がピシッとして。


 また、だらける。


 ……少し楽しいと思ってしまった。


 情で縛られるタイプだとリズに言われたばかりなのに、すでに少し縛られている気がする。


 非常に危険である。



 夕方。


 その日の仕事は驚くほど平和だった。


「今日はもういいわ」


 エレオノーレ殿下が最後の書類に印を押しながら言ってくれる。


「ありがとうございます」


 ありがたい、今日も定時に近い時間で上がれる。


 悪くない。


 これなら、城勤めだとしても平穏に生きていける気がする。


 皇城の廊下を抜け、門を出て、帝都の道を歩く。


 夕方の風が心地いい。


 屋台からは良い匂いがする。


 働いた後の街の空気は、やはりいい。


 今日も麦穂亭に食べに行ってもいいかもしれない。


 アンナちゃんは癒やしだし。


 なんだかんだ給料は悪くないし。


「よし、いったん宿に寄って着替えたら麦穂亭行くか」


 そう決めて、少しだけ軽くなった足取りで宿へ向かう。


 ――しかし。


「……ん?」


 宿の前に人だかりができていた。


 なんだ?


 誰か酔っ払いでも暴れたか?


 いや、それにしては人が多い。


 妙にざわついている。


 入り口の前に、荷物を抱えた宿泊客が何人も立っている。


 主人が青い顔で頭を下げている。


 嫌な予感がする。


「あ、ロビンくん……!」


 宿の主人が俺に気づいてくれたが、ものすごく申し訳なさそうな顔だった。


 それだけで、何が起きているかだいたいわかってしまった。


 わかりたくなかった。


「……何かあったんですか?」


「今日は、その、部屋が……」


「部屋が?」


「使えなくなっちまって……」


 ――うん。


 空を見上げる。


 帝都の空は、夕焼けで赤かった。


 綺麗だった。


 とても綺麗だった。


 ジルベルト殿下。


 あなた、そんなに暇なんですか?

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