第74話 亡国の王子、名乗る。
エレオノーレ殿下が退室し、扉が閉まる。
部屋に残ったのは、俺と、寝台の上の皇帝と、壁際に控える老侍従だけだった。
……。
…………皇帝を殺したいなら、多分今以上のチャンスはないんだよなぁ。
圧があるとは言え、明らかに病人。
護衛の近衛騎士も多くいるとは言え、部屋の外だ。
実質、問題になるのは老侍従一人。
今なら。
逃げきれはしないだろうが、この男の命を取ることも――。
……。
エレオノーレ殿下、泣いちゃうかな。
「名を、なんという」
「はい?」
不意に皇帝が口を開いた。
考えを断ち切るような、低い声。
「名だ」
「あ、はい。第七皇女宮秘書官、ロビンと申します」
覚えなくていいですよ?
普通の下級官吏は皇帝の御前で名乗らない。
「そうか」
皇帝が、じっと俺を見る。
見慣れた碧眼。
でも、俺が出会ってきたどの皇族とも違う目で見られている気がした。
「ならば、ロビン」
「はい」
「儂を殺したければ、今が最後の機会だぞ?」
――。
心臓が止まったかと思った。
「……お戯れを」
なんとか、声を絞り出す。
「冗談ではないぞ」
皇帝の口元が、薄く歪む。
「シャーウッドの残り火め」
「……」
ああ。
やっぱり。
「……ご存知だったのですね」
もう、隠す意味もなかった。
「当然だ。まだまだ甘い子らとは持っている情報量が違う」
皇帝が鼻で笑う。
……そりゃそうだよな。
「私を、いかがなされるおつもりですか?」
死ぬかもな。
どうする?
「何も」
あまりにも予想外で、あまりにもあっさりとした返事だった。
「……よいのですか?」
「貴様は先ほど、『第七皇女宮秘書官ロビン』と名乗った」
皇帝の目が、まっすぐこちらを見据える。
「その者を殺す必要を、今の儂は感じておらん」
「……そうですか」
それ、たぶん優しさじゃないよね。
ただ単純に殺す価値も、必要もない。
そう判断されているだけだ。
「不満か?」
「まさか」
むしろ助かります。
死にたくないので。
「……少し、拍子抜けしました」
あと、少しムカついてます。
「ふん」
皇帝が、また鼻を鳴らした。
笑ったのかもしれない。
「それに、秘書官のロビンとやらは見ていて良い娯楽だったぞ」
「……普通の下級官吏として過ごしているつもりですが」
普通に書類仕事をして、普通に酒を飲み、普通に本を読んでいるだけだ。
「亡国の王子が、復讐もせず、娘の秘書官をやり」
指を一本。
「女好きの息子の尻拭いをし」
二本。
「悩み事の多い生真面目な娘と友になり」
三本。
「強者好きの息子に気に入られ」
四本。
「今度は儂を助けようとしておる」
あ。
「何のことでしょう」
反射的に惚けてみる。
「くだらん」
即答で切られた。
まあ、やっぱり無駄だったか。
「娘どもは、隠し事が上手くなったつもりらしいが」
皇帝が喉の奥で小さく笑う。
「まだ甘い」
カミラ殿下、エレオノーレ殿下。
微妙じゃないです。
めっちゃバレてます。
そこまで分かっているなら、もう俺いらなくないですか?
帰っていいですか?
「儂が神に縋ったなどと知れば、帝国は弱くなる」
たぶん、それは本当だ。
世界最強の帝国。
その象徴である皇帝が、教会に縋った。
その事実だけで、周辺国は「帝国は揺らいでいる」と判断する。
貴族も、軍も、官僚も、同じことを考える。
……だから王族とか皇族ってのは嫌なんだ。
「この国は、神ではなく人の手で立つ国だ。剣で切り拓き、魔導で進み、法で縛り、税で動かす。祈りで治める国ではない」
「治療を受けることと神に縋ることは、同じではないと思いますが」
「儂にとっては同じだ」
頑固だな、この人。
いや、知ってたけど。
カミラ殿下とエレオノーレ殿下が頭を抱えるわけだ。
「まあよい」
皇帝が、疲れたように息を吐く。
「どちらにせよ、儂はもうすぐ死ぬ」
あまりにも平坦な声だった。
悲しくも、悔しくもなさそうな。
ただの予定を告げるような。
「なら、少しだけ面白くしてやろう」
「……と、仰いますと?」
嫌な予感しかしない。
「次の夜会。儂も出て、その場で後継者を確定させる」
聞きたくなかった。
ものすごく聞きたくなかった。
「そこで後継者と決まった者が」
皇帝が、ゆっくりと笑う。
「儂に教会の治療を受けろと言うのであれば、受けてやろう」
……悪趣味すぎる。
カミラ殿下とエレオノーレ殿下は、父親を助けたくて動いている。
それを、この人は後継者争いの賞品にした。
治療を受けさせたければ、帝位を取れ、と。
「子どもたちにくれてやる最後の余興だ」
「最悪ですね」
あ、やべ。
口が滑った。
不敬罪で死ぬかも。
「くく」
だが、皇帝は笑った。
「そういう顔をするから、エレオノーレが手元に置くのだろうな」
「……恐れ入ります」
「褒めてはおらん」
そっすか。
「陛下」
老侍従さんが、静かに声をかけた。
「お時間です」
「そうか」
皇帝は、わずかに目を閉じる。
その仕草だけは、病人のものに見えた。
「下がれ」
「……はい」
深く頭を下げ、扉に向かおうとするが――。
どうしても一つ。
「あの」
「何だ」
「……エレオノーレ殿下に、個人的な伝言があればお伝えしますよ?」
私的な話をする場は今後用意できないかもしれない。
だったら、今のうちに何かあれば……
「ない」
即答だった。
「儂の子だ。今さら伝えることなど何もない」
「……そうですか」
「不満そうだな」
「いえ」
「貴様は王族だったくせに、父親というものに夢を見すぎではないか」
そういうものなのだろうか。
でも。
「……私は」
自分でも、どうして言ったのか分からない。
「父の最後の言葉を、知りたかったですよ」
それは、アルバートとしての一言だった。
皇帝は、それに気付いたのか、気付かなかったのか。
「知らん」
「……そうですか」
そりゃそうだ。
でも、ようやく本当に分かった気がした。
俺の父の最後の言葉は、もうどこにもない。
「失礼します」
もう一度深く頭を下げ、振り返らず扉へ向かった。
たぶん、二度とこの部屋に来ることはないだろう。
◇
退室し、扉が閉まった瞬間、全身から力が抜けそうになった。
生きてる!
皇帝の前から生きて出てきた!
今日の俺はもう何もしなくていいのでは!?
「お疲れ様でした」
老侍従さんが、いつの間にか俺の横に立っていた。
「いえ、ありがとうございました」
「礼を言われるようなことはしておりません」
「生きて出していただけたので」
マジで。
本気で死ぬかと思った。
「もし」
「はい?」
老侍従さんが足を止めた。
俺もつられて止まる。
「もし、あの場で貴方が“余計な事”をしようとしたら」
その目からは感情が読み取れなかった。
「陛下がなんと仰ろうとも、私は許しませんでした」
「……でしょうね」
「分かりますか」
「なんとなく」
本当になんとなくだ。
きっとこの人は、俺がチャンスだと考えたことも気付いている。
「…………でも」
少しだけ、言葉を探す。
「帝都に来たばかりの頃であれば、我慢できなかったかもしれません」
教会で目を覚ました直後の俺なら。
帝都へ来て、官吏試験を受けていた頃の俺でも。
あの部屋であの状況だったら、たぶん。
相打ちで良いと考えただろう。
「なるほど」
老侍従さんは、ただ頷いた。
責めるでもなく。
慰めるでもなく。
「この国はお好きですか?」
「嫌いです」
そこは嘘をつけない。
嫌いだ。
たぶん、これからも好きにはならない。
でも。
「ですが、住んでいる人たちには好きな人もいます」
エレオノーレ殿下にリズ。
アンナちゃんに麦穂亭の馬鹿な飲み友達。
ドロシーさんにヘレナさん。
カミラ殿下にグスタフ殿下に、色んな世間話をするようになった貴族や城の優しい人たち。
街で楽しそうに走り回る子どもたちや、ケーキ屋や本屋を営む人たち。
たくさん、好きな人が増えてしまった。
「そうですか」
老侍従さんが、ほんの少しだけ笑った。
「それは何よりです」
「何より、なんですかね」
「ええ」
俺にはよく分からない。
でも、この人がそう言うなら、そうなのかもしれない。
「それでは」
老侍従さんが一礼する。
「また、いつか」
「できれば二度とお会いしたくないですね」
「はは、私もです」
老侍従さんは、上品に笑った。
「気が合いますね」
「ええ。残念ながら」
俺は、老侍従さんが皇帝の私室へ戻っていく背中を見送った。
……。
…………。
どうしよう。
これ、俺がカミラ殿下とエレオノーレ殿下に報告しなきゃ駄目?
駄目だよね。
知ってた。




