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亡国の王子ですが、のんびりしようと下級官吏になったら、なぜか昼行燈と噂の第七皇女の秘書官になりました  作者: 萩原詩荻
第二章 第五皇女ドロテア

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第28話 亡国の王子、走る

「ぜぇっ……はぁっ……!」


 走る。


 全力で走る。


 転んだら終わりだ。


 何が終わるって、俺の信用である。


 今日はドロシーさんから本を借りて三日目の夜。


 城を飛び出したのはたぶん二十三時三十分くらい。


 飛び出すとき、門番さんが「ロビン殿!?」とか言っていたけど、反応する余裕がなかった。ごめん。


「くそっ……!」


 監査準備が悪い。


 今日は少し早めに仕事を切り上げる予定だったのだ。


 なのに、途中で「あ、これもお願い」と自然な顔で仕事を増やしてきたリズも悪い。


 長椅子で「頑張って」と言いながらお菓子を食べていたエレオノーレ殿下もちょっとだけ悪い。


「せめて……魔術を使ってよければ……!」


 今ここで身体強化か風魔術を少し使えば、どれだけ楽か。


 だが、こんな時間の帝都で魔術を使って爆走したら、衛兵に止められる未来しか見えない。


 そして職務質問なんぞ受けていたら、確実に間に合わない。


 なので、自力で走るしかない。


「くっ……そういえば」


 昔、師でもある近衛兵長が「アルバート殿下。走り込みはすべての基本です。毎日欠かさないように」って言ってたな。


 あなたの教えは、今、本の返却期限を守るために役立っています。


 どうか天国で笑わないでください。


 ただ、あの頃に俺がどれだけ泣いても走らされたのは許さない。絶対にだ。


「っ、見えた……!」


 教会の門だ。


 テルシア教の教会は、夜でも門を閉ざさない。


 よく知っている。


 助けを求めてくる人間に、時間は関係ないからだそうだ。


「はぁ……はぁ……っ」


 すー。


 はー。


 すー。


 はー。


「……よし」


 キィッ。


 中に入ると、礼拝堂は薄暗く、蝋燭の火が数か所で揺れている。


 奥へ行けば、夜番の聖職者が誰かいる。


 懺悔室の呼び鈴を鳴らせば、誰かが来てくれる。


 けれど今、この礼拝堂に見える人影は一人だけだった。


 前方の長椅子。


 黒い髪。


 眼鏡。


 両手を組んで、静かに聖印へ向かっている女性。


 ドロシーさんだ。


「……」


 いるとは思わなかった。


 でも、どうしよう。


 めっちゃ真剣に祈ってる。


 声をかけるのはさすがにまずいよな。


 離れた長椅子に座って、少し待つか。


 そっと。


 できるだけ音を立てず。


 慎重に。


 ギシッ。


「……」


「……」


 礼拝堂に、椅子の軋む音がやけに大きく響いた。


 なぜだ。


 普段はそんな音しないだろ、お前。


 椅子にまで裏切られる日が来るとは思わなかった。


「……来たのね」


 祈りを解いたドロシーさんが、こちらを見ずに言う。


「すみません、邪魔をしました」


「気にしなくていいわ」


 ゆっくりと手をほどき、一度だけ深く頭を下げてから、こちらを向く。


 その動作が、やけに丁寧だった。


 形だけの礼拝じゃない。


 ……この人、本当に信心深いんだな。


 俺みたいにヘレナさんと本を貸し借りしに来ているだけではない、ということだ。


 彼女は懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。


「……二十三時五十二分。時間内ね」


「夜遅かったら、教会の人に渡すように言ってませんでしたか?」


 絶対言った。


 だから俺は「間に合えばいい」と思って走ってきたのであって、本人がここにいるとは思っていなかった。


「少し、礼拝が長引いただけよ」


「そうですか」


 それはそれは。


 俺が来なかった場合、この人は日付が変わるまでここで祈っていたのだろうか。


 でも、そんなことは聞かない。


 だって、嬉しいから。


「では、こちらをお返しします」


 鞄から布で包んだ本を取り出し、両手で差し出す。


「汚してないでしょうね」


「もちろん。ただ、ごめんなさい」


「何?」


「先日、渡してもらった布を洗濯していたので、私の布で包みました」


 あの布の値段は知らないけど、たぶん俺の布よりは高い。


「それくらい別にいいわよ」


 何故か、ちょっと呆れた顔をされた。


「そもそも、あの布まで返せとは言ってないでしょう」


「え?」


「あれくらいなら、あげるわよ」


「いや、高そうだったので」


「……そう?」


「高いですよね?」


「普通よ」


 たぶん普通ではない。


 まあいいか。


 ドロシーさんは本を受け取ると、表紙や背を軽く確認している。


 目つきが怖い。


「……問題ないわね」


「信用してくださいよ」


「信用してるから貸したのよ」


「お」


 ちょっと嬉しい。


「それで」


「はい」


「感想は?」


 本当はそれを聞くために残っていたんじゃないですか、とは言わない。


「面白かったです」


「それだけ?」


「そんな顔しないでくださいよ。ちゃんと続きがあります」


「なら早く言いなさい」


 せっかちだなぁ。


 だが、本好き最大の儀式である。


 これを適当に済ませる者に、次の本はない。



 しばらく、二人で本の話をした。


 礼拝堂で。


 夜中に。


 たぶん、この教会が想定している使い方ではない。


 でも、ここは今、俺たちだけの場所だった。


「ということで、総じて面白かったです」


「ふむ。まあ、及第点の感想ね」


「ありがとうございます?」


 感想に及第点とかあんのかよ。


「……続きも貸してあげてもいいわ」


「続きあるんですか?」


 てっきり完結しているのかと。


「一気に数十年飛んだあとのお話があるわ」


「貸してください」


「まだ駄目」


「なんで!?」


「『今ちょっと仕事が忙しい』んでしょ?」


「……」


 よく覚えてるな、この人。


「では、仕事が一段落したらお願いします」


「考えておくわ」


「そこは貸してくださいよ」


「態度次第ね」


 何の態度だ。


 少し話が途切れて、礼拝堂に静けさが戻る。


 不思議な空間と、不思議な時間だった。


 だから、少しだけ聞いても良いかなと思った。


「ドロシーさん」


「何?」


「夜の礼拝って、いつもこんな時間まで?」


「日によるわ」


 ドロシーさんは本を膝に置き、礼拝堂の奥を見た。


 そこには、テルシア教の聖印が掲げられている。


「一日の終わりに祈ると、落ち着くの」


「毎日ですか?」


「仕事の都合上、難しい日もあるけど、できる限りは」


「すごいですね」


 俺は、教会で数年暮らしていたが、そこまで強い信仰心は持っていない。


 もちろん、教会には感謝している。


 でも、毎朝毎晩欠かさず祈るほどではない。


「すごくはないわ。私に必要だからしているだけ」


「必要?」


「ええ。何が正しいのか分からなくなる日があるでしょう?」


「ありますね」


 ……あるよね。


 でも、たぶんそれは皆があることだ。


「そういう時、祈っている間だけは自分に嘘をつきにくくなる感じがするの」


 それも、わかる。


「……熱心なんですね」


「そう見える?」


「見えます」


「そう」


 ドロシーさんは、少しだけ表情の選択に困ったような雰囲気だった。


「困るのよ。あまり表に出すべきではないから」


「やっぱり、帝国内だと立場によってはあまり大きな声では言い辛いものですか?」


「……そうね。噂通りと思ってもらって良いわ」


 現皇帝はテルシア教を疎んじている。


 その程度の噂なら、酒場でも聞ける。


「でも、信じているものを隠さなきゃいけないのは、大変そうです」


 口に出してすぐ、踏み込みすぎたかもしれない、と思った。


 良くない。


 誰かに踏み込んでしまうと、踏み込み返されたときに困る。


「……そうね。大変ではあるわ」


 でも、ドロシーさんは膝の上の本にそっと手を置いた。


「すみません。踏み込みすぎました」


「いいわ。夜中の教会は少し本音が漏れるものよ」


 そう言ってもらえるとありがたい。


「さて」


 ドロシーさんが立ち上がった。


「そろそろ帰るわ」


「こんな時間ですが、大丈夫ですか?」


「大丈夫よ」


「よければ送りますけど」


「大丈夫よ」


 まあ、無理強いする気はないけど。


 たぶん、どこかイイとこのお嬢様か何かなんだろうし。


「あ、そうだ。これ、よかったら」


 そこでふと思い出し、鞄から小さな包みを取り出す。


「何?」


「昨日、街で買った焼き菓子です」


「……私に?」


「本を貸してもらったお礼ということで」


「別にそんなものいらないのに」


 そう言いながらも受け取ってはくれた。


 よかった。


「蜂蜜とナッツ入りです」


「……嫌いではないわ」


「よかったです」


 この人も喜び方が素直じゃないタイプの人だなぁ。


 あ、でも。


「走ってきたので、多少形崩れてたらごめんなさい」


「……走ったの?」


「全力で」


「そこまでして期限を守ったの?」


「誰のせいですか」


「あなたの仕事が遅いせいでしょう」


「厳しい!」


 甘いお菓子を渡したのに。


「じゃあ、また」


「はい。また」


 教会の入口へ向かうドロシーさんを見送る。


「次に借りた本を返す時は、もう少し余裕を持って来なさい」


「はい」


「走って来ると、汗で本が湿る可能性があるわ」


「心配そこ!?」


 俺の価値は本以下らしい。


 いや、わかるけど。


 ドロシーさんが少し笑ったような顔で教会の扉を抜けていくのを見送り、聖印に向き直る。


 彼女に感化されたわけではないが、少しだけ祈ろうと思ったのだ。


 ――神様。


 せめて監査の日までは平和に過ごせますように。


「あら、ロビンくん」


「あ、ヘレナさん。ちょうどよかった、手土産のお菓子です」


「あらあらうふふ」


 早くも祈ったご利益があったようだ。

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