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亡国の王子ですが、のんびりしようと下級官吏になったら、なぜか昼行燈と噂の第七皇女の秘書官になりました  作者: 萩原詩荻
間章

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20/26

間章 亡国の王子、懺悔する。

 帝都の片隅にある、小さな教会。


 既に夜も遅いからか、他の人影は無かった。


 昼間なら祈りに来る者がいる。


 怪我をした者。


 病を抱えた者。


 日々の苦しみを神に預けに来る者。


 けれど、今は静かだった。


 古びた長椅子。


 壁にかけられた聖印。


 揺れる蝋燭の火。


 その奥にある狭い懺悔室に、俺は一人で座っていた。


 正確には、一人ではない。


 薄い仕切りの向こう側に、人の気配がある。


「最近、笑ってしまうんです」


 ぽつりと。


 自分の声は、思っていたより響いた気がした。


「帝都に来て、仕事を始めて、変な人たちに会って」


 指先が冷えている。


 懺悔室の木の壁に、爪が軽く当たった。


「ご飯を食べて、仕事に文句を言って、ふかふかの寝台で寝て、酒場で笑っている」


 胸の奥にあったものが、ようやく形になる。


「笑う権利なんてないのに」


 自嘲のように、唇がわずかに歪む。


「父も、兄も、知っている人も、知らない人も、たくさん死にました」


 仕切りの向こうから返事はない。


 だから、続きを言える。


「俺は生き残りました」


 俺は生き残った。


 生き残ってしまった。


「生き残ったのに、復讐もしないで、帝国で働いています」


 王族として育てられた。


 国を背負うのだと教えられた。


 民を守るのだと教えられた。


 誇りを忘れるなと教えられた。


 けれど、俺がしたことは、逃げることだった。


 生きるために。


 誰かが逃がしてくれた命を、無駄にしないために。


 そう言えば聞こえはいい。


 でも、結局は逃げたのだ。


「しかもよりによって、仇国の皇女の下で」


 沈黙だけがある。


 責める声も、慰める声もない。


 それでよかった。


「最近、その人が少し笑うんですよ」


 エレオノーレ殿下の顔を少し思い出す。


「普段は無表情で、静かで、何を考えてるかわからない人なんですが。菓子を食べると少しだけ顔が緩む。変な人なんです」


 ほんの少しだけ、口元が動きそうになる。


 でも、笑えなかった。


「その人を、放っておけないと思ってしまった」


 帝国の皇女を。


 自分の国を滅ぼした皇帝の娘を。


 放っておけないと思ってしまった。


「俺は何をしているんでしょうね」


 それが、ひどく裏切りのように思える。


「復讐しようと思ったことがないわけじゃありません」


 それも嘘ではない。


 夜中に目が覚めた時。


 焼けた城の夢を見た時。


 帝国の旗を見上げた時。


 胸の奥で、黒いものが燃えることはある。


「でも、腹は減るんです」


 情けないくらいに。


 どれだけ憎んでも、腹は減る。


 どれだけ悔やんでも、寝なければ体は動かない。


「帝都のパンは美味いんです」


 飯が美味しくて。


「教会の人たちは優しかったし、道で遊ぶ子どもたちは、俺の国を滅ぼしたわけじゃない」


 この帝都で、嫌いになれない人たちが増えてしまって。


「エールを注いでくれる女給さんも、俺をからかう騎士も、だらしない魔術師も、俺の家族を殺したわけじゃない」


 それが、ひどく申し訳ない。


「同僚のメイドも上司の皇女も決して悪いヒトじゃない」


 口元が、ほんの少しだけ歪む。


「恨み続けるには、ここは温かすぎる。忘れるには、俺は覚えすぎている」


 蝋燭の火が揺れる音だけがした。


「おかしいですよね。みんな死んだのに」


 指先に力が入る。


「俺だけ、生きている」


 その声は、ひどく静かだった。


「死ぬべきだった、とまでは言いません。たぶん、それを言ったら怒られるから。父上にも、母上にも、兄上にも」


 小さく、息を吐く。


「それでも笑うと、一瞬だけ忘れてしまうんです」


 国が滅びたことを。


 俺が、本当はアルバートだったことを。


「その一瞬が、怖い」


 声が掠れた。


 仕切りの向こうは、変わらず静かだった。


「忘れたいわけじゃないんです」


 忘れたくない。


 忘れてはいけない。


 俺だけが覚えているものがある。


 俺だけが持っている墓標がある。


 なのに。


「でも、ずっと覚えていたら、生きていけない」


 それも、たぶん本当だった。


 人は、痛みだけでは生きていけない。


 怒りだけでも、悔恨だけでも、死者への義務だけでも。


 生きている体は、温かい飯を求める。


 眠れる寝床を求める。


 誰かの声を求める。


 笑ってしまう夜を求める。


「俺は、どうしたらいいんでしょうね」


 返事はない。


 わかっていた。


 返事を求めて来たわけではない。


 答えなんて、たぶん誰にも出せない。


 死者は何も言わない。


 神も、少なくとも俺には、わかりやすい言葉では何も言わない。


 だから俺は、自分で決めるしかない。


「……明日も、仕事に行きます」


 そう言うと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。


「書類を片付けて、たぶん変なことに巻き込まれて、また誰かに笑われて」


 それで。


 たぶん、俺も笑う。


「だから……」


 言葉が詰まった。


 謝るべきなのか。


 許しを請うべきなのか。


 それとも、ただ誓うべきなのか。


 わからなかった。


「だから、もう少しだけ、生きます」


 それだけを言った。


 仕切りの向こうの人は、最後まで何も言わなかった。


 それでよかった。


 俺は静かに立ち上がる。


 懺悔室の扉を開けると、教会の冷たい空気が流れ込んできた。


 燭台の火が、小さく揺れる。


 長椅子の並ぶ礼拝堂を、ゆっくりと歩く。


 出口の扉に手をかける前に、一度だけ振り返った。


 誰もいない。


 誰かはいる。


 それでも、何も言わない。


「おやすみなさい」


 誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。


 俺は教会の扉を開ける。


 夜の帝都は、まだ明るかった。


 遠くから、酒場の笑い声が聞こえた気がした。


 俺はそちらへは向かわず、使用人宿舎のある皇城の方へ歩き出す。


 明日も仕事だ。


 生きている者には、朝が来る。

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