間章 亡国の王子、懺悔する。
帝都の片隅にある、小さな教会。
既に夜も遅いからか、他の人影は無かった。
昼間なら祈りに来る者がいる。
怪我をした者。
病を抱えた者。
日々の苦しみを神に預けに来る者。
けれど、今は静かだった。
古びた長椅子。
壁にかけられた聖印。
揺れる蝋燭の火。
その奥にある狭い懺悔室に、俺は一人で座っていた。
正確には、一人ではない。
薄い仕切りの向こう側に、人の気配がある。
「最近、笑ってしまうんです」
ぽつりと。
自分の声は、思っていたより響いた気がした。
「帝都に来て、仕事を始めて、変な人たちに会って」
指先が冷えている。
懺悔室の木の壁に、爪が軽く当たった。
「ご飯を食べて、仕事に文句を言って、ふかふかの寝台で寝て、酒場で笑っている」
胸の奥にあったものが、ようやく形になる。
「笑う権利なんてないのに」
自嘲のように、唇がわずかに歪む。
「父も、兄も、知っている人も、知らない人も、たくさん死にました」
仕切りの向こうから返事はない。
だから、続きを言える。
「俺は生き残りました」
俺は生き残った。
生き残ってしまった。
「生き残ったのに、復讐もしないで、帝国で働いています」
王族として育てられた。
国を背負うのだと教えられた。
民を守るのだと教えられた。
誇りを忘れるなと教えられた。
けれど、俺がしたことは、逃げることだった。
生きるために。
誰かが逃がしてくれた命を、無駄にしないために。
そう言えば聞こえはいい。
でも、結局は逃げたのだ。
「しかもよりによって、仇国の皇女の下で」
沈黙だけがある。
責める声も、慰める声もない。
それでよかった。
「最近、その人が少し笑うんですよ」
エレオノーレ殿下の顔を少し思い出す。
「普段は無表情で、静かで、何を考えてるかわからない人なんですが。菓子を食べると少しだけ顔が緩む。変な人なんです」
ほんの少しだけ、口元が動きそうになる。
でも、笑えなかった。
「その人を、放っておけないと思ってしまった」
帝国の皇女を。
自分の国を滅ぼした皇帝の娘を。
放っておけないと思ってしまった。
「俺は何をしているんでしょうね」
それが、ひどく裏切りのように思える。
「復讐しようと思ったことがないわけじゃありません」
それも嘘ではない。
夜中に目が覚めた時。
焼けた城の夢を見た時。
帝国の旗を見上げた時。
胸の奥で、黒いものが燃えることはある。
「でも、腹は減るんです」
情けないくらいに。
どれだけ憎んでも、腹は減る。
どれだけ悔やんでも、寝なければ体は動かない。
「帝都のパンは美味いんです」
飯が美味しくて。
「教会の人たちは優しかったし、道で遊ぶ子どもたちは、俺の国を滅ぼしたわけじゃない」
この帝都で、嫌いになれない人たちが増えてしまって。
「エールを注いでくれる女給さんも、俺をからかう騎士も、だらしない魔術師も、俺の家族を殺したわけじゃない」
それが、ひどく申し訳ない。
「同僚のメイドも上司の皇女も決して悪いヒトじゃない」
口元が、ほんの少しだけ歪む。
「恨み続けるには、ここは温かすぎる。忘れるには、俺は覚えすぎている」
蝋燭の火が揺れる音だけがした。
「おかしいですよね。みんな死んだのに」
指先に力が入る。
「俺だけ、生きている」
その声は、ひどく静かだった。
「死ぬべきだった、とまでは言いません。たぶん、それを言ったら怒られるから。父上にも、母上にも、兄上にも」
小さく、息を吐く。
「それでも笑うと、一瞬だけ忘れてしまうんです」
国が滅びたことを。
俺が、本当はアルバートだったことを。
「その一瞬が、怖い」
声が掠れた。
仕切りの向こうは、変わらず静かだった。
「忘れたいわけじゃないんです」
忘れたくない。
忘れてはいけない。
俺だけが覚えているものがある。
俺だけが持っている墓標がある。
なのに。
「でも、ずっと覚えていたら、生きていけない」
それも、たぶん本当だった。
人は、痛みだけでは生きていけない。
怒りだけでも、悔恨だけでも、死者への義務だけでも。
生きている体は、温かい飯を求める。
眠れる寝床を求める。
誰かの声を求める。
笑ってしまう夜を求める。
「俺は、どうしたらいいんでしょうね」
返事はない。
わかっていた。
返事を求めて来たわけではない。
答えなんて、たぶん誰にも出せない。
死者は何も言わない。
神も、少なくとも俺には、わかりやすい言葉では何も言わない。
だから俺は、自分で決めるしかない。
「……明日も、仕事に行きます」
そう言うと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
「書類を片付けて、たぶん変なことに巻き込まれて、また誰かに笑われて」
それで。
たぶん、俺も笑う。
「だから……」
言葉が詰まった。
謝るべきなのか。
許しを請うべきなのか。
それとも、ただ誓うべきなのか。
わからなかった。
「だから、もう少しだけ、生きます」
それだけを言った。
仕切りの向こうの人は、最後まで何も言わなかった。
それでよかった。
俺は静かに立ち上がる。
懺悔室の扉を開けると、教会の冷たい空気が流れ込んできた。
燭台の火が、小さく揺れる。
長椅子の並ぶ礼拝堂を、ゆっくりと歩く。
出口の扉に手をかける前に、一度だけ振り返った。
誰もいない。
誰かはいる。
それでも、何も言わない。
「おやすみなさい」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
俺は教会の扉を開ける。
夜の帝都は、まだ明るかった。
遠くから、酒場の笑い声が聞こえた気がした。
俺はそちらへは向かわず、使用人宿舎のある皇城の方へ歩き出す。
明日も仕事だ。
生きている者には、朝が来る。




