第17話裏 メイド、皇女と乾杯する。
「……リズも一緒に飲みに行っても良かったのよ?」
第七皇女宮の執務室。
夜も深くなり、メイドや侍従たちの気配も遠ざかった頃。
仕える主がポツリと言ってきた。
あら、可愛らしいこと。
「麦穂亭?別にいいよ」
「だって、リズも好きなお店なんでしょ?」
長椅子に沈んでいるエルがちょっと拗ねたように言ってくる。
こういう時に、目を合わせないのは昔から変わらないんだから。
「だって、私まで行っちゃったら、エル一人になるでしょ」
「……別に。メイドや侍従だっているもん」
「はいはい」
「ほんとよ?」
「はいはい」
「信じてない」
「信じてる信じてる」
雑に返すと、エルが少しだけ頬を膨らませる。
皇族らしさは欠片もない表情だった。
もちろん、その顔を知っている者は限られている。
ほとんどの者にとって、第七皇女エレオノーレは、無口で、無表情で、存在感の薄い皇女でしかない。
……最近、素顔を知る者が一人増えたが。
正直、有能とはいっても私が本気で調べても教会以前の素性がわからない相手をどこまで信用したものかとは思っている。
だから監視の意味も込めて隣の部屋にしたわけだし。
まあ、エルは昔から人を見る目があるので、たぶん大丈夫なのだろう。
「本当はエルが行きたかったんでしょ?」
「……だって、私も普通の酒場って行ってみたい」
「ジルベルト殿下やグスタフ殿下はたまに行ってるみたいだけどね」
「兄様たちばっかりズルい」
「そのうち変装してロビンに連れてってもらいなさい」
適当にそう言うと、エレオノーレは少しだけ目を瞬かせた。
なんだその、「その手があったか」みたいな顔は。
思いついてなかったのか。
ごめん、ロビン。
仕事増やしちゃった。
「リズ手伝って」
「はいはい」
まあ、変装魔術は得意だからそれくらいなら手伝ってあげよう。
「じゃ、今日はこっちで二人で乾杯しましょ」
まだちょっと拗ねてるふうな皇女殿下様を慰めるために言うと、少しだけ目を瞬かせた。
「……乾杯?」
「打ち上げ。一応、ジルベルト殿下の件は片付いたんだし」
「そうね」
機嫌が少し良くなったのか、エルが長椅子の上で体を起こして、口元を緩める。
「じゃあ、せっかくだし、いいの開けよ」
「いいわね」
それはとてもいい案だ。
ロビンは今頃冷たいエールを飲んでいるんだから、こっちはこっちでもっといいものを飲もう。
「じゃ、四十年物を開けちゃいましょ」
「……いいの?」
「エルが言ったんでしょ」
「言ったけど」
「後悔するなら今よ」
「しない」
「じゃあ決まり」
鍵のかかった小さな酒棚。
そこから取り出された瓶は、ひと目で高級品と分かるものだった。
深い色の硝子。
古びた封蝋。
丁寧に保管されていた証拠の、薄い埃。
「……今回の詫びとしてジルベルト兄様から一本貰ってもいいわね」
「あの人いいもの持ってそう」
「わかる」
そんな会話をしながらワイングラスを並べ、封を切る。
とく、とく、とく。
赤い液体がゆっくりと注がれた。
灯りを受けて、深い宝石のように揺れる。
うん、いい香りだ。
「ん」
エルがグラスを少し持ち上げる。
こういう姿を見ると、本当に映える顔してるなぁ、うちの主。
「一人目に」
――その言葉にはさすがに手が止まった。
「……本当にやるの?」
エルの瞳を覗き込んで聞く。
「そのつもり」
「はぁ……」
本気の色をしていた。
こうなったら頑固なんだから。
ま、いっか。
「まあ、付き合うけどね」
「ありがと」
「長い付き合いだからね」
「うん」
二人のグラスが、かすかに触れ合う。
小さく、澄んだ音がした。
「おいしい」
「さすがに高いだけあるわね」
「ちょっとずるいくらい」
「高いものは大体ずるいのよ」
本当に美味しい。
ふむ。一人やるごとに美味しいワインを開けるというのは良いかもしれない。
「でも、やるならちゃんとやりましょ。中途半端につつくのが一番危ないわ」
「分かってる」
本当にわかってるかなぁ。
「ラスボスは第二皇女殿下か、第一皇子殿下かしらねぇ」
「ジーク兄様は最後まで残るとは思うけど、ラスボスって感じじゃないわよねぇ」
ひどい評価だ。
でもわかる。
「じゃあ、第二皇女殿下がラスボス?」
「……カミラ姉様対策は早めに必要ね」
「たぶん、あの方、もう半分くらい気付いてるわよ」
「知ってる」
「しかも楽しんでるわよ」
「それも知ってる」
「怖いわね」
「怖いわ」
カミラ・フォン・ライヘンバッハ。
第二皇女。
美しく、派手で、強く、有能で、そして目がいい。
エルが自分を隠していることに、昔から気付いている姉。
避けては通れない相手だった。
「まあ」
グラスを少し掲げる。
「第六皇子殿下を押さえられたのは、悪くない一歩よ」
「でしょ」
二人で小さく笑う。
静かな夜だった。
どこかの酒場では、きっと今ごろ乾杯の声が上がっているのだろう。
けれど第七皇女宮の奥では、たった二つのグラスが、静かに何かの始まりを告げていた。




