第97話:グランド・バカンスと、波音に溶ける涙
第97話:グランド・バカンスと、波音に溶ける涙
大深緑の迷い森の地下深くに築かれた、広大なる三つの都市。
その全域に、ダンジョンマスターである俺、シンの声が魔法の拡声器を通じて響き渡っていた。
『――以上が、新たに完成した第3都市、通称「リゾート階層」の全貌だ。そして今日、俺はこの迷宮国家の全住民、および滞在中の全冒険者と傭兵に向けて宣言する』
第1都市の居住区でも、第2都市の酒場でも、すべての者が手を止め、宙に浮かぶ映像の俺を見上げていた。
『本日から一週間を、特別な長期休暇……「グランド・バカンス」とする!』
俺の言葉に、各都市は水を打ったように静まり返った。
『この一週間、すべての労働、生産、そしてダンジョンでの狩りを禁止する。リゾート階層への入場は完全無料。期間中の食事、酒、宿代、すべて俺のDPで賄う。タダ飯を食い、波の音を聞き、昼間から酒を飲み、何もしなくていい。何をしてもいい。お前たちには「思い切り休むこと」だけを命じる!』
さらに、俺は声を一段低くして、絶対のルールを告げた。
『リゾート階層には、いずれ外の国の王族や大貴族、高ランク冒険者や大商人たちも招待するつもりだ。だが、あの場所では身分も種族も資産も一切関係ない。「絶対平等の楽園」だ。今後、どれほどの権力者が来ようとも、彼らに特権は一切与えない。誰もが等しく、ただの客として遊ぶ。それが、俺の創り上げた楽園の唯一の掟だ! さあ、手枷足枷を外し、心ゆくまで羽を伸ばしてこい!』
放送が途切れ、ホログラムがふっと消滅する。
しかし、住民たちの反応は、俺が期待していたような爆発的な歓声ではなかった。
むしろ、広場は異様な「困惑」に包まれていたのである。
「……おい、聞いたか。休め、だってよ」
「一週間、何もしなくていい……? そんな馬鹿な。働かざる者食うべからずだ。休めば飢え死にするのが、この世界の常識だろうが」
「しかもタダ飯だと? まさか、俺たちを丸々と太らせてから魔物の餌にする気じゃ……いや、マスターに限ってそれはない。ないはずだ」
無理もないことだった。
この過酷な異世界において、彼らは生まれた時から「今日を生き抜くための労働」に縛り付けられてきた。元奴隷の住民も、日銭を稼ぐ傭兵も、常に死と貧困の影に怯えながら毎日を必死に生きてきたのだ。
「純粋な娯楽としての休暇」などという概念は、彼らの辞書には存在しなかったのである。
それでも、恐る恐る、あるいは好奇心に勝てず、彼らは第1、第2都市から繋がる巨大なゲートを潜り、第3都市へと足を踏み入れた。
そして――彼らは言葉を失った。
見渡す限りの青い空と、どこまでも続く真っ白な砂浜。
透き通るような海が、エメラルドグリーンの輝きを放ちながら穏やかな波音を立てている。魔物の気配は一切なく、ただ潮風が優しく頬を撫でるだけ。
「なんだ、ここは……天国、か……?」
顔に大きな傷のある隻眼の傭兵が、剣の柄から手を離し、呆然と呟いた。
砂浜には色とりどりのパラソルが並び、ドワーフたちが満面の笑みで、冷えたエールと香ばしく焼かれた海鮮串を無料で配り歩いている。
『ほらほら! 突っ立ってないで、お兄さんたちもおいでよ! お水、すっごく気持ちいいよ!』
「キュイッ!」
浅瀬では、可愛らしい水着姿のルリが、テトや孤児院の子供たちと一緒になって、パシャパシャと水を掛け合って無邪気に笑っていた。
そのあまりにも平和で、温かく、毒気のない光景に、屈強な冒険者たちも徐々に肩の力が抜けていく。
「……おい、マスターの言う通りだ。ここは、本当に何もない。あるのは美味い飯と、綺麗な景色だけだ」
傭兵たちは、恐る恐る防具を脱ぎ捨てた。
そして、冷えたエールを受け取ると、砂浜に腰を下ろした。波の音を聞きながら、真昼間から酒を煽る。誰の指図も受けず、命の危険もない、ただの無駄で贅沢な時間。
「……美味ぇな」
誰かがポツリとこぼしたその一言が、魔法の合図だった。
堰を切ったように、街全体に笑い声が弾け始めた。
山のキャンプ場では、普段はいがみ合っている別パーティーの冒険者同士が、一つの大きな焚き火を囲み、高級な肉を焼きながら馬鹿話に花を咲かせている。
森の川辺では、引退した老狩人が、魔物用の罠ではなく、手作りの釣り竿を垂らし、のんびりと浮きを見つめながら穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、海辺の端。
かつて帝国の非道な貴族に飼われ、虫ケラのように虐げられていた元奴隷の女性が、波打ち際に裸足で立ち、寄せては返す波をただ見つめていた。
彼女の足元を、冷たくて心地よい海水が優しく洗っていく。
「私……生きているのね。こんなに美しい世界で、ただ息をして、笑っていいのね……」
誰に怯えることもなく。誰かに殴られることもなく。
彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、青い海へと溶けていった。それは悲しみの涙ではなく、張り詰めていた心の糸がほどけた、真の解放の涙だった。
俺は少し離れた高台から、ミラージュや幹部たちと共にその光景を見下ろしていた。
「……見事ですね、マスター。たった一日で、彼らの顔から『明日の命を案じる暗い影』が完全に消え去りました。心の底からの安堵と幸福。これこそが、真の豊かさなのですね」
ミラージュが、どこか眩しそうな目で砂浜を見つめながら微笑む。
集められた莫大なDPは、こうして彼らの笑顔を守るために使われる。俺の迷宮は、もうただ生き残るための防空壕ではない。「幸せに生きるための国」になったのだ。
「ああ。よく働き、よく遊ぶ。それが俺たちの国の新しい常識だ。……さて」
俺は不敵な笑みを浮かべ、ミラージュに視線を向けた。
「そろそろ、各国の『お偉いさん』たちにも、この極上の楽園の招待状が届く頃合いじゃないか?」
「はい。すでに数カ国の王侯貴族や大商人たちが、護衛を引き連れて国境のゲートへ向かっているとの報告が入っております。……ふふっ、彼らがここで『絶対平等』の洗礼を受け、どんな顔をするのか、今から楽しみでなりませんね」
波音と笑い声に満ちた、絶対安全の地下楽園。
しかし、外の世界の傲慢な権力者たちがこの平和な砂浜に足を踏み入れた時、俺たちの掲げた「身分無用のルール」が、いよいよ真の威力を発揮しようとしていた。




