第91話(閑話):触らぬ神と、崩壊する権力者たち
第91話(閑話):触らぬ神と、崩壊する権力者たち
大陸南西部、不可侵の中立都市『エリュシオン』。
この日、大陸の歴史上極めて稀な「緊急国際会議」が極秘裏に開催されていた。
円卓を囲むのは、西の軍事大国、南の商業連合、そして伝統ある絶対王政国家など、これまで『深緑の無名奈落』と直接的な関わりを持たず、高みの見物を決め込んでいた六つの大国の王と宰相たちである。
しかし、彼らの顔に余裕の色は微塵もなかった。全員が、まるで死刑宣告を待つ罪人のように青ざめ、脂汗を流していた。
「——では、会議を始める」
議長を務める西の大国の王が、重苦しい声で口を開いた。
「本日の議題はただ一つ。はるか北の森に座す、正体不明の迷宮……『深緑の無名奈落』についてだ」
その名が出た瞬間、円卓の空気が凍りついた。
「まず、各国の【人口流出】の被害状況から報告してくれ」
「……は、はい」
南の商業連合の宰相が、震える手で書類を読み上げる。
「ここ数ヶ月で、我が同盟国から『数万人』規模の平民が姿を消しました。噂を聞きつけた農民たちが、村ごと……文字通り、村長から赤子に至るまで全員が、家財道具一式を持って北の迷宮へと大移動を開始しているのです。……働き手を失い、我が国の農業と工業は完全に麻痺しつつあります」
「我が国も同じだ! 重税に耐えかねた平民どもが、まるで集団催眠にでもかかったように北を目指している!」
別の王が机を叩いて声を荒げた。
「平民だけならばまだしも、問題は【裏社会】です」
情報ギルドを束ねる長官が、絶望的な声で割って入った。
「現在、大陸全土の裏社会や闇ギルドが、完全にパニックに陥っております。不法な奴隷売買や密輸で私腹を肥やしていた我が国の貴族たちが、突如として『北の暗殺者に首を刎ねられる!』と発狂し、自費を投じて在庫の奴隷をすべて解放し、迷宮の入り口まで移送しているのです!」
「貴族が自腹で奴隷を逃がしているだと!? 馬鹿な、奴らにそんな倫理観などあるはずが——」
「倫理観ではありません。絶対的な【恐怖】です」
長官は、一枚の報告書を円卓の中央に投げ出した。そこには、大陸中央の都市で起きた「ゴードン男爵失脚事件」の顛末が詳細に記されていた。
「つい数週間前、大陸有数の悪徳商人バッカスと、その後ろ盾であるゴードン男爵が、違法奴隷を収容していた地下牢で『何者か』に強襲されました」
長官は唾を呑み込み、信じられない事実を口にする。
「彼らを守っていたのは、大陸でも腕利きの傭兵数十人。しかし、彼らは【誰一人として武器を抜く間もなく】、一瞬にして四肢の筋を正確に斬り飛ばされ、生かしたまま戦闘不能にされました。さらに、何重もの魔法錠がかけられていた男爵の絶対金庫から『裏帳簿』と『密書』が音もなく抜き取られ、翌朝には王家の監査局にバラ撒かれていたのです」
「……なっ!?」
「一瞬で数十人の傭兵を無力化し、魔法金庫を破っただと? そ、そのような芸当、伝説の暗殺者でも不可能だぞ!」
「それだけではありません。この件を皮切りに、過去の未解決事件の点と点が、すべて一本の線に繋がりました」
長官はさらに報告を続ける。
「皆様は覚えているでしょうか。数年前、東の森で捕縛部隊がエルフの集落を包囲した際、数百人のエルフが【空間ごと一瞬で消失した】事件を。あれは高度な広域転送魔法の仕業でしたが、現在、そのエルフたちは北の迷宮で悠々と暮らしております」
「なんだと……!?」
「さらに、先日『魔導帝国』が国法を破って死の谷で掘り起こしていた古代兵器『機巧魔神』。帝国軍の全魔導師が結界を張って守っていたにも関わらず、兵器の心臓部(神話級コア)だけが、文字通り【煙のように強奪】されました。……帝国軍は一切の反撃すらできず、戦意を喪失して撤退したと報告が上がっております」
——完全なる沈黙。
円卓を囲む王や宰相たちは、自分たちの呼吸の音すら恐ろしくなるほどの絶対的な畏怖に包まれていた。
常識外れの広域空間転送。
帝国軍の多重結界を容易くすり抜ける神業。
数十人の凄腕傭兵を一瞬でダルマにし、国の中枢に証拠をバラ撒く圧倒的な諜報力と暗殺術。
「……そ、それほどの武力と情報網を持つ組織が、なぜ……なぜ、わざわざ不法奴隷の救出などに動くのだ? 奴らの目的は何なのだ!?」
一人の王が、恐怖で声を上擦らせながら叫んだ。
「報告によれば、迷宮の主は『理不尽に泣く弱者を放っておけない』と公言しているそうです。……彼らはただ、純粋な義憤と、自らの理想郷を広げるためだけに、これほど規格外の武力を惜しげもなく振るっているのです」
「い、狂っている……! 利益も領土も求めず、ただ『理想』のためだけに世界を敵に回すというのか!」
「いや、もはや我々が【敵とすら認識されていない】のだろう……!」
西の大国の王が、震える手で顔を覆った。
「おい、誰か……あの迷宮に軍隊を送れるか? 正規軍を差し向けて、奴らを討伐することは……」
「不可能です」
軍務卿が即座に、そして無慈悲に首を横に振った。
「最新の偵察報告によれば、あの迷宮の深層には、神話の時代に世界を支配した『紅蓮の古竜』『海溝の主』『天穿の神鳥』が、三体揃って主への絶対の忠誠を誓い、防衛に就いているとのことです。……軍隊など、一歩踏み入れた瞬間にチリも残さず消滅します」
「……ならば、暗殺者を送って、主の寝首を……」
「不可能だと言っているだろうが! 逆に我々の寝所に影の死神が現れ、一族郎党皆殺しにされるわ!」
議論は、絶望的な結論へと収束していく。
軍隊を送れば神話の魔物に焼かれ、裏工作を仕掛ければ全知全能の諜報網に暴かれ、法外な手段に出れば暗殺部隊に物理的・社会的に抹殺される。
防御力、攻撃力、諜報力、そのすべてにおいて、シンの迷宮はすでに「人間国家が束になっても傷一つつけられない神の領域」へと到達していたのである。
「……打つ手なし、か」
議長の王が、深く、長く、絶望的なため息を吐き出した。
「我々にできることは、たった一つだ。あの北の迷宮には【絶対に手を出さない】こと。触らぬ神に祟りなしだ。……そして、民の流出を止めるためには」
王は、円卓の権力者たちを見渡し、極めて皮肉な、しかし絶対の真実を口にした。
「我々自身が税を下げ、奴隷を解放し、民が逃げ出さないような【善政】を敷くしかない。……あの迷宮が在る限り、理不尽な暴政を行えば、遅かれ早かれ我々の首が物理的に飛ぶことになるのだからな」
権力と私欲を貪ってきた王や貴族たちが、圧倒的な「理不尽な暴力(正義)」を前にして、自らの態度を改めざるを得なくなった瞬間であった。
シンの創り上げた『深緑の無名奈落』は、自ら軍を動かして世界を征服することなく、ただそこに存在するという「圧倒的な威容」だけで、大陸全土の理不尽を正し、平和をもたらしていくのであった。




