第90話(閑話):自由の選択と、幸福のインフレーション
第90話(閑話):自由の選択と、幸福のインフレーション
大陸全土の裏社会を震撼させた『暗殺部隊の絶対布告』から数週間後。
『深緑の無名奈落』の第1層入り口には、これまでの歴史上類を見ない、異様かつ壮大な光景が広がっていた。
「さ、さあ! 降りてくれ! ここの王様に、俺たちが無事に送り届けたってちゃんと伝えてくれよ!」
「頼む! 俺たちはもう違法奴隷から手は引いた! だからあの影の死神に、命だけは助けてくれと言ってくれぇぇ!」
大型の幌馬車や魔導馬車が次々と森の入り口に乗り付け、中からボロボロの服を着た人々が降ろされていく。
彼らは人間、エルフ、獣人、ドワーフなど、種族も年齢も様々であった。借金のカタに売られた者、森で攫われた者、戦火で親を失った孤児たち。
ザイードたちの「首を刎ねる」という脅しに本気で命の危険を感じた大陸中の悪徳商人や裏ギルドのゴロツキたちが、保身のために在庫の不法奴隷をすべて解放し、莫大な輸送費を自腹で払ってまで、我先にと北の迷宮へ送り届けてきたのである。
「えっと……ここは、どこ……?」
「俺たち、殺されるのか……?」
降ろされた数千人の元奴隷たちは、目の前にそびえ立つ巨大な迷宮の入り口を前に、ガタガタと震えながら身を寄せ合っていた。
しかし、彼らを出迎えたのは、恐ろしい魔物ではなく、温かいスープを持った迷宮の住民たちと、柔らかな笑顔を浮かべた文官たちであった。
「長旅、お疲れ様でした。もう誰も貴方たちを縛りません。さあ、まずは温かいものを食べて、お風呂に入ってください」
***
数日後。第6層の巨大な中央広場。
迷宮の清潔な衣服に着替え、すっかり健康的な血色を取り戻した元奴隷たちが集められていた。彼らは頭上に広がる青空(セレンの結界)と、周囲を囲む美しく輝く黄金の都市の光景に、いまだに夢を見ているような心地だった。
「気分はどうだ? 飯は口に合ったか?」
広場の壇上に、一人の黒髪の青年が気さくな足取りで現れた。
彼がこの信じられないような理想郷を創り上げた若き覇王、『シン』であるという事実は、すでに彼らの間にも知れ渡っていた。
「お前たちが味わった理不尽については、本当に災難だったと思う。だが、もう案ずるな。俺の国に足を踏み入れた以上、誰も二度とお前たちを不当に扱うことはない」
シンの声は、威圧感など微塵もない、春の陽だまりのように暖かく包み込むような声音だった。
「俺は、お前たちを歓迎する。この国で暮らしたいという奴には、家も、仕事も、学ぶ場所もすべて無償で保証してやる。……だがな」
シンは言葉を切り、広場に集まった人々の顔をゆっくりと見渡した。
「俺はお前たちを、人口を増やすための『道具』にするつもりはない。ここから先は、お前たち自身の意思で決めてくれ」
「……え?」
元奴隷たちの間に、戸惑いのどよめきが走った。
「故郷に帰りたい奴。俺たちの部隊が助け出すよりも前から待っている家族がいる奴。そういう奴は、遠慮なく申し出てくれ。迷宮の精鋭に護衛をさせて、お前たちの故郷まで責任を持って送り届けてやる。……もちろん、路銀も持たせてな」
「————ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、数千人の元奴隷たちの目から、せき止めていたダムが決壊したように大粒の涙が溢れ出した。
奴隷として扱われ、人間としての尊厳も自由もすべて奪われていた彼らにとって、『自分の意志で、自分の帰る場所を選んでいい』という言葉が、どれほどの救いであったか。
彼らはシンの底知れぬ器の大きさと、損得勘定を度外視した純粋な慈愛に触れ、嗚咽を漏らしながらその場に深く、深く平伏した。
こうして、シンは希望する者たちに充分な金と食料を与え、レオンハルトの部隊や迷宮の魔物たちを護衛につけて、彼らをそれぞれの故郷へと送り帰したのである。
——だが、シンの「器の大きさ」は、彼自身も予想していなかった奇妙な【逆流現象】を引き起こすこととなった。
数週間後。
故郷の村へ帰還した人間の子供たちや獣人の女性たちは、涙を流して家族との再会を喜んだ。
しかし、彼らの帰った国々は相変わらず腐敗しており、重税と貧困に苦しむ過酷な生活が待っていた。
そこで、帰還した子供たちは目を輝かせて家族に語ったのだ。
『北の迷宮の王様はね、ご飯をいっぱい食べさせてくれて、ふかふかのベッドをくれたんだよ!』
『あそこは天国でした。誰も私たちを差別せず、働けば正当な対価がもらえる、黄金の街だったんです』
その話を聞き、さらに彼らがシンから持たされた「金貨の入った袋」を見た家族や村人たちは、顔を見合わせて決断した。
『……おい。こんな税金搾り取られるだけのクソみたいな国に、これ以上しがみついてる理由があるか?』
『ああ! そんなに素晴らしい王様がいるなら、俺たちも北の迷宮に行こう!』
結果としてどうなったか。
シンが「一人の子供」を故郷に帰した結果、その数週間後には、その子供が「両親、祖父母、親戚、さらには村人全員(数百人)」を引き連れて、再び迷宮の入り口にやってきたのである。
帰したはずの人口が、何十倍にも膨れ上がって戻ってくるという、前代未聞の【逆移住ラッシュ】が巻き起こったのだ。
***
「……ガストン。なんか、数週間前より明らかに人が増えてないか?」
「ははは! マスターの慈悲深さが大陸中に知れ渡り、もはや『民族大移動』の様相を呈しておりますぞ!」
第6層の都市区画は、かつてないほどの凄まじい活気と熱狂に包まれていた。
ガストン率いる内政官たちと、ドラン率いるドワーフの建築隊は嬉しい悲鳴を上げながら、不眠不休で都市の拡張工事を進めていた。
第6層の居住区画は限界まで横へと広げられ、さらに第6.5層の商業区画には巨大な娯楽施設や闘技場、新たな温泉施設が次々と立ち並んでいく。もはや一国の王都すらも凌駕する、圧倒的なメガロポリス。
そして、その爆発的な人口増加と、住民たちが感じる「絶対的な幸福感」は、迷宮のシステムを通じてダイレクトにエネルギーへと変換されていた。
「マ、マスターァァァッ!!」
マスターズ・チェンバーで、ダンジョンコアであるルリが、信じられないものを見る目で空中の立体モニターを指差していた。
彼女の周りには、実体化した【DP(魔力)の結晶】が、まるで金貨の雨のようにジャラジャラと降り注いでいる。
「DPのケタが……メーターが振り切れそうです! 無限迷路の『絶望のDP』もすごいですが、都市部の数十万人から湧き出る『幸福のDP』のインフレが止まりません! 私、魔力酔いしそうですぅ〜!」
ルリは幸せそうに目を回し、光の粒の山にダイブした。
「おいおい、すげえなこりゃ。貯蔵庫をさらに拡張しねえと入りきらねえぞ」
シンは大量の魔力結晶を手に取り、腹を抱えて大笑いした。
「キキッ! こんだけエネルギーがあれば、もう一つくらい神話の階層を作れちまうぜ!」
「ええ。マスターの懐の深さが、結果として我が国に最大の豊穣をもたらしたのです」
恐怖で支配するのではなく、圧倒的な『自由と幸福』を与えることで、民の心を完全に掌握し、結果として最強の力を手に入れる。
『深緑の無名奈落』は、シンの無意識のカリスマ性によって、終わることのない黄金のインフレーションへと突入していくのであった。




