第88話:見えざる聖域と、慈愛の導き手
第88話:見えざる聖域と、慈愛の導き手
大陸中央部の空白地帯。深い霧に包まれた『隠形の鬼人族』の隠れ里は、重く息苦しい沈黙に支配されていた。
一族の希望を託し、若き戦士ジンを北の迷宮へと送り出してから、まだ数時間しか経過していない。
彼が北の森へ辿り着くまでに数日。そこから迷宮の主が軍を動かして人間の都市へ向かったとしても、さらに日数がかかる。その間に、攫われた子供たちがどれほどの絶望と恐怖を味わうのか……いや、最悪の場合、すでに奴隷として世界中に散り散りに売られてしまっているかもしれない。
「……くそっ。時間が、時間が足りねえ……!」
族長のゴウラは、焚き火の前で頭を抱え、血の滲むような声を漏らした。
子供たちを攫われた親たちは声を殺して泣き、屈強な戦士たちは己の無力さに唇を噛み破っている。隠れ里の空気は、今にも張り裂けそうな限界の緊張状態にあった。
——しかし、その張り詰めた空気は、突如として集落の中心に現れた「柔らかな光」によって優しく解きほぐされた。
「……え?」
見張りに立っていた鬼人の戦士が、間の抜けた声を上げた。
空間が微かに波打ち、そこに一人の女性が音もなく立っていたのだ。修道服を思わせる清楚なローブに身を包んだ、透き通るような銀髪の女性。彼女の瞳は固く閉じられていた。
「な、何者だッ!? いつの間に結界を抜けて……!」
ゴウラをはじめとする戦士たちが一斉に武器を構え、彼女を取り囲む。
隠密と結界のスペシャリストである鬼人族が、彼女が『集落のど真ん中に転移してくるまで』一切の魔力の気配を感知できなかったのだ。その異常な事態に、戦士たちの背筋に冷たい汗が流れる。
「どうか、武器をお収めください。私に敵意はありません」
盲目の天才結界師セレンは、周囲を取り囲む殺気にも全く動じることなく、聖母のように穏やかな微笑みを浮かべた。
「私は『深緑の無名奈落』の主、シン様の命により参りました、結界師のセレンと申します」
「北の迷宮の……!? 馬鹿な、ジンが向かってまだ数時間だぞ! どうやって我らの危機を知ったというのだ!」
ゴウラが驚愕に目を剥く。
「我が主は、すべてを視ておられます。貴方方が使いを出そうと決断するよりも早く、諜報部隊から報告を受けたシン様は、『子供たちの危機に一刻の猶予もない』と危惧され、即座に三方面同時進行の救出作戦を決断なさいました」
セレンの言葉に、鬼人たちは信じられないものを見る目で互いの顔を見合わせた。
「私が出向いたのは、賢人会の目を欺き、この集落の皆様全員を安全に我が迷宮へお迎えするため。……そして、子供たちの救出は、我が軍で最も素早く、冷徹な暗殺部隊がすでに動いております」
「す、すでに動いているだと……!?」
その時、セレンの胸元で通信用の魔石が淡く光った。
『あー、こちらザイード。セレン、聞こえるか?』
「はい、ザイード殿。そちらの状況は?」
『掃除は完了だ。ガキどもに指一本触れさせることなく、全員無傷で檻から出したぜ。人間の悪党どもは二度と立ち上がれねえように処理しておいた。……おい、お前ら。父ちゃんや母ちゃんに声を聞かせてやれ』
魔石の向こうから、ザイードの少し乱暴だが優しい声に促され、鼻をすする小さな声が響いた。
『お父ちゃん……お母ちゃん……っ!』
『怖かったよぉ……でも、黒いお兄ちゃんたちが、悪い奴らをやっつけてくれたの……!』
「「「————ッ!!」」」
その声を聞いた瞬間。
子供を攫われていた親たちが、そして張り詰めていた戦士たちが、一斉に武器を放り出してその場に泣き崩れた。
間に合わないと思っていた。力なき自分たちには、運命を呪うことしかできないと思っていた。
しかし、彼らが頼ろうとした北の覇王は、彼らの想像を絶するスピードと圧倒的な暴力で、絶望の運命をいとも容易く叩き壊してくれたのだ。
「あ、あああ……! なんという奇跡……なんという恩義……!」
族長のゴウラは、大粒の涙を流しながらセレンの足元に深く平伏した。
「この御恩、一生忘れません! 我ら隠形の鬼人族三百名、この命と隠密の技のすべてを、シン様の迷宮の戦力として永遠に捧げることを誓います!」
「……顔を上げてください、族長殿」
セレンは静かに歩み寄り、ゴウラの大きな手を両手で優しく包み込んだ。
「シン様は、貴方方の『戦力』を搾取するために助けたのではありません。ただ、『理不尽に泣く子供を放っておけない』という、王としての当然の怒りから軍を動かされただけなのです」
盲目の彼女の顔は、シンの底知れぬ優しさを代弁するように、慈愛に満ちていた。
「我が迷宮には、豊富な食料も、安全な寝床も、温かいお風呂もあります。……戦力としてどう貢献するかなどと焦る必要はありません。まずは我が国で、貴方方自身が『安全で、幸福な生活』を送ること。それこそが、シン様が最も望んでおられることなのです」
「安全な……生活……」
数百年もの間、力を隠し、強者に怯え、いつ奴隷にされるかと震えながら生きてきた鬼人たちにとって、それは何よりも欲しくて、何よりも叶わないと諦めていた『夢』であった。
それを、見返りも求めずに与えてくれるというのだ。
「さあ、出発の準備を。ザイード殿たちが、子供たちと共に合流地点で待っています。……賢人会の古き王たちには、塵一つ見つけさせはしません」
セレンが杖を高く掲げると、集落全体を包み込むように、薄青く輝く『超広域・絶対安全転送陣』が展開された。
あらゆる魔力探知を遮断し、空間そのものを切り取って運ぶ、天才結界師の奥義。
青い光が天へ昇った次の瞬間——深い霧に包まれていた隠形の鬼人族の集落は、三百人の部族もろとも、大地からすっぽりと姿を消していた。
***
空間跳躍の光が収まった先。
そこは、ザイードたちが待機していた大陸中央の平原であった。
「お父ちゃん!! お母ちゃん!!」
「無事だったか……! よく生きて……!」
転送陣から現れた鬼人たちは、駆け寄ってきた五人の子供たちを力強く抱きしめ、顔をぐしゃぐしゃにして再会の涙を流した。
ザイードとクロウは、その様子を腕を組んで満足げに眺めている。
「セレン、お疲れさん。全員無事に回収できたな」
「はい。ザイード殿たちも、素晴らしい手際でした。……さあ、皆様。涙を拭いてください」
セレンは、泣き崩れる鬼人族や、ザイードが一緒に救出した人間の子供たち、エルフの女性たちに向かって、優しく微笑みかけた。
「これより、皆様を『深緑の無名奈落』へご案内いたします。誰も貴方方を脅かさない、黄金の理想郷へ」
再び青い光が一行を包み込む。
絶望の淵にあった隠形の鬼人族は、圧倒的な力と深い慈愛を持つシンの陣営に完全に心を救われ、これまでの過酷な運命に別れを告げて、暖かな光の待つ新たなる故郷へと旅立っていくのであった。




