第86話:完璧なる先読みと、三つの救済指令
第86話:完璧なる先読みと、三つの救済指令
『深緑の無名奈落』第6層、マスターズ・チェンバー。
都市区画の喧騒から離れたこの静寂の空間で、諜報長官ミラージュは円卓の上に大陸中央部の立体マップを投影し、一人の若き鬼人の「光点」を指し示していた。
「——以上が、大陸中央の空白地帯に隠れ住んでいた『隠形の鬼人族』の現状です。強大な力を持ちながらも、賢人会の目を恐れて数百年も息を潜めていた彼らですが……数日前、人間の奴隷狩り部隊によって、子供五人が攫われました」
ミラージュは感情の読めない平坦な声で、しかし極めて正確に事の顛末を語る。
「現在、族長の命を受けた若き戦士『ジン』が、一族の命運を懸けて、我が迷宮へ助太刀を乞うために不眠不休で駆け続けております。……まあ、私が先日、行商人に化けて『理ある王の噂』を吹き込んでおいたからこそ、彼らも迷わずこちらへ向かう決断ができたのですが」
その報告を聞いていた幹部たちは、一様に息を呑んだ。
「お前……相変わらず、えげつない情報網と先読みだな」
シンは腕を組み、呆れたように、しかし最大限の称賛を込めてため息をついた。
「相手がこっちに助けを求めようと決断する前から、すでに部族の事情も、子供が攫われたことも、使者が向かってきていることも全部筒抜けってわけか」
「優秀な眼とは、主が望むであろう盤面を常に先回りして整えておくものです」
ミラージュは淡々と一礼した。
「彼らの持つ隠密技術と基礎戦闘力は、間違いなく我が軍の強力な手駒となります。……いかがなさいますか、我が主」
シンは、円卓のマップで懸命に北を目指して移動している小さな光点を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。
そして再び目を開けた時、その瞳には、彼が最も嫌悪する「理不尽」に対する、冷たく静かな怒りの炎が灯っていた。
「……手駒になるかどうかはどうでもいい。罪のない子供を金のために攫うような人間の外道どもを、俺が見逃すと思うか?」
シンの低い声に、マスターズ・チェンバーの空気がピリッと張り詰めた。
「使者がボロボロになって到着して、俺の前で土下座して頼み込む……そんな劇的な展開なんか待ってる暇はねえ。子供たちの身に何かあってからじゃ遅いんだ。今すぐ、俺たちから動き出して全部ひっくり返すぞ!」
シンがバンッと円卓を叩いて立ち上がると、幹部たちも一斉に居住まいを正し、臨戦態勢に入った。
「ミラージュ、クロウ、ザイード、セレン! これより三つの部隊に分かれて、同時救出作戦を決行する!」
「「「御意!!」」」
「まずザイード! お前は暗殺部隊を率いて、子供たちを攫った人間の都市へ急行しろ。子供たちには指一本触れさせるな、無傷で奪還しろ。……そして、奴隷狩りをやっていたクズ共と、それを裏で糸引いてる商人は、二度とそんな真似ができないように完膚なきまでに叩き潰してこい」
「キキッ! 任せな、マスター! 悪党の掃除は俺たちの一番の得意分野だ。骨の髄まで後悔させてやるぜ!」
双剣のザイードと黒豹のクロウが、獰猛な笑みを浮かべて影に沈む。
「次にセレン! お前は空間転送で、隠形の鬼人族の集落のすぐそばまで飛べ。そして、賢人会の古き王どもに気付かれないように『絶対結界』で集落全体を覆い隠し、残っている三百人の部族全員を、安全にこの迷宮へ移住(転送)させろ」
「はい、マスター。私の結界は、何人たりとも破らせません。彼らを暖かく迎え入れる準備をいたします」
盲目の結界師セレンが、優雅に一礼して杖を掲げる。
「そしてミラージュ! お前は俺と一緒に来い」
シンは円卓のマップで、今もなお絶望と焦燥の中で走り続けている若き使者の光点を力強く指差した。
「今この瞬間も、一族の未来を背負って必死に走ってる若者がいるんだ。こいつが道中で魔物や盗賊にやられたら元も子もねえ。……俺たちが直接迎えに行って、安心させてやるぞ」
「承知いたしました。私の眷属(狐)の案内で、最短ルートで彼の元へ転移します」
完璧な情報に基づく、完璧な適材適所の指示。
シンの陣営は、使者が言葉を発するよりも早く、彼らの抱えるすべての問題を解決するための「圧倒的な暴力と救済のシステム」を稼働させたのだ。
「俺たちの国(理想郷)を頼ろうと決めた奴らを、絶対に見捨てるな」
シンは、幹部たちを見渡し、力強く言い放った。
「理不尽に虐げられ、闇に隠れるしかなかった鬼人たちに、太陽の下を歩かせてやるぞ! 全機、作戦開始!!」
シンの号令と共に、最高峰の戦力を持つ幹部たちが、一陣の風となってそれぞれの目的地へと出撃していく。
孤独と絶望の中で走り続ける若き鬼人の戦士はまだ知らない。彼が助けを求めた北の迷宮の主が、彼が想像した百倍も規格外で、底知れぬ優しさと圧倒的な力を持つ『本物の覇王』であることを。
悲劇を事前に叩き潰すための、痛快極まりない無血の救出劇が、今まさに幕を開けたのであった。




