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残高ゼロの極小ダンジョン経営~頼りない水晶コアと、ネズミ穴から始める迷宮拡張記~  作者: 盆ちゃん


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第85話(閑話):不可視の鬼人と、影の行商人

第85話(閑話):不可視の鬼人と、影の行商人

 テラ・マグナ大陸の中央部。

 『悠久の賢人会』のメンバーである古き王たちのダンジョン群——その勢力圏のちょうど「中心」にあたる空白地帯に、一年中深い霧に覆われた険しい峡谷が存在する。

 いかなる地図にも記されていないその谷の奥深くに、ひっそりと息を潜めて暮らす者たちの集落があった。

 彼らは『隠形の鬼人族シャドウ・オーガ』。

 漆黒の一本角を持ち、大岩を素手で砕くほどの圧倒的な筋力と、光を屈折させて周囲の風景に完全に溶け込む「高度な隠密魔法」を生まれ持つ、戦闘と暗殺のエキスパート種族である。

 彼らの持つ戦闘力は、間違いなく大陸でもトップクラスであった。もし彼らが表舞台に出れば、大国の騎士団であろうと正面から壊滅させることができるだろう。

 しかし、彼らは数百年もの間、人間国家にも、そして何よりも『ダンジョンマスター』たちにも絶対に見つからぬよう、結界を張り巡らせてひっそりと隠れ暮らしてきた。

 理由は単純にして残酷だ。

 もし彼らの存在と強大な力が、周辺を支配する『賢人会』の古き王たち——古竜やリッチ、古代エルフ——に知られれば、彼らは一族もろとも迷宮に連れ去られ、永遠に「最前線の駒(防衛戦力)」として飼い殺される運命にあるからだ。

 強大すぎるがゆえに、力を使えばより強大な者に呑み込まれる。だからこそ、彼らは「弱者」として息を潜める道を選んだのである。

 ——だが現在、その静かなる隠れ里は、かつてないほどの悲痛な怒りと絶望に包まれていた。

「……すまねえ、族長。俺の、俺の不注意だ……!」

 集落の中央にある族長のテント。血まみれになった鬼人の戦士が、地面に額を擦り付けて号泣していた。

「峡谷の浅い場所で木の実を採っていた子供たち五人が……人間の『奴隷狩り』の部隊に見つかっちまった。俺が駆けつけた時には、強力な魔術具の網で捕らえられ、転送魔法で人間の都市へ連れ去られた後だった……!」

 その報告を聞き、族長のゴウラはギリッと奥歯を噛み締めた。握りしめた巨大な拳からは、爪が食い込んで血が滴り落ちている。

「人間の都市に乗り込み、子供たちを奪い返す! あんな脆弱な人間ども、俺たち戦士が十人もいれば一夜で滅ぼせるはずだ!」

「そうだ! 我らの同胞を奴隷商人に売り飛ばされるなど、我慢できるものか!」

 周囲を取り囲む屈強な戦士たちが、怒りで目を血走らせながら立ち上がる。

 しかし、族長のゴウラは血の滲むような声で彼らを制止した。

「……待て。早まるな、お前たち」

「族長! なぜ止めるのですか!」

「我らが人間の都市で『力』を解放すれば……その巨大な魔力の波動を、周囲の『賢人会』のバケモノどもが絶対に見逃さない」

 ゴウラの言葉に、戦士たちはハッとして息を呑んだ。

「子供たち五人を救うために武力を行使すれば、間違いなく賢人会のマスターが軍勢を率いてこの谷にやってくる。そうなれば……今度こそ集落の同胞三百人すべてが、永遠に自由を奪われる奴隷(迷宮の防衛兵)と化すのだぞ!」

 ——重く、冷たい沈黙がテントを支配した。

 力が、ある。人間の国を滅ぼし、子供たちを助け出す力は確実にあるのだ。しかし、その力を使えば、一族すべてがより巨大な絶望に呑み込まれる。

 その絶対的なジレンマが、誇り高き鬼人たちの心をズタズタに引き裂いていた。

「……くそっ。くそォォォォッ!!」

 ある者は地面を殴りつけ、ある者は天を仰いで慟哭した。

 このまま見殺しにするしかないのか。誇りを捨て、闇に紛れて生きる彼らに、子供の命を天秤にかける残酷な選択が迫られていた。

 ——その時、族長のゴウラの脳裏に、数日前にこの隠れ里の結界を「あっさりとすり抜けて」現れた、ある奇妙な人物の顔が浮かんだ。

『絶望の淵にある強者たちよ。もし道に迷った時は、北の森を目指しなさい』

 灰色の外套を羽織った、特徴のない顔の『行商人』。

 彼は迷い込んだふりをして集落に現れ、塩や香辛料を安値で置いていった。そして去り際に、世間話のように「ある噂」を語っていったのだ。

『はるか北の大深緑の迷い森に、一人の若き王が統べる迷宮があります。……その王は、無用な血を流すことを嫌い、弱きを助け、あらゆる種族を平等に受け入れる度量を持っています。水も、食料も、住む場所も無償で与えられる、真の理想郷です』

 その時は「人間の口車など信じられるか」と一蹴したゴウラだったが、行商人は最後にこう付け加えていた。

『……その王ならば、力を隠し持つ貴方たちの「強さ」を搾取することなく、正当に評価し、守るべきものを取り戻すための【剣】を貸してくれるかもしれませんよ』と。

 ゴウラは顔を上げ、集落で最も俊敏で、隠密技術に長けた若い戦士——ジンを呼んだ。

「ジン。お前に、一族の運命を託す」

「族長……。俺は、何をすればいい?」

「数日前に現れた行商人が語っていた、北の森の迷宮……『深緑の無名奈落』。お前の隠密技術と足なら、賢人会の目を盗んで北の森まで数日で辿り着けるはずだ。……その迷宮のマスターと接触しろ」

 ゴウラはジンの両肩を強く掴み、祈るように言った。

「もしその迷宮が、ただ魔物を搾取するだけの血生臭い場所なら、そのまま戻ってこい。その時は、一族の破滅を覚悟で俺たちが人間の都市へ特攻をかける」

「……はい」

「だが、もし行商人の噂が真実であり、その主が本当に弱きを助ける『理ある王』であったなら……。我ら隠形の鬼人族三百人の絶対の忠誠と引き換えに、人間の国に連れ去られた子供たちを救出する『助太刀』を願ってきてくれ……!」

 ジンは、一族の長が流した涙を見て、無言で深く、深く頷いた。

「必ずや。……必ずや、一族の希望を持ち帰ります」

 その日の夜。

 漆黒の装束に身を包んだ鬼人の若き戦士ジンは、音も魔力の残滓も一切残さずに集落を出発し、闇に溶け込むようにして北へと駆け出した。

 連れ去られた同胞の命。そして、すり減りゆく一族の未来。

 そのすべてを両肩に背負った孤独な斥候は、藁にもすがる思いで、遥か北に座すという『未知なる覇王』の元へと、一陣の影となって大陸を駆け抜けていくのであった。

 ——そして、彼らはまだ知らない。

 彼らにその情報を吹き込んだ「灰色の行商人」こそが、北の迷宮の諜報長官ミラージュであり、彼らの苦悩も、子供の誘拐すらもシンの迷宮の知るところとなっているという、圧倒的な情報網の恐ろしさと頼もしさを。

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