第80話(閑話):雲海の隠居生活と、昇りくる悪友たち
第80話(閑話):雲海の隠居生活と、昇りくる悪友たち
地上のいかなる鳥も、魔物も到達できない、はるか数万メートルの成層圏。
幾重にも張り巡らされた「不可視の結界」によって、現代の人間たちの伝承からも完全に忘れ去られた『名もなき空島』で、そいつは今日も大あくびをしていた。
『ふぁ〜あ……。今日も下界の雲は白く、太陽は暖かいのう。平和じゃ、実に平和じゃ』
天穿の神鳥。
かつて、一度羽ばたくだけで暴風雨を巻き起こし、雷雲を纏って空を支配した絶対の覇者。黄金に輝く巨大な嘴と、紫電を帯びた美しい瑠璃色の羽根を持つ神話の鳥である。
彼は今、空島に生えた巨大な世界樹の枝に作られたふかふかの巣にすっぽりと収まり、目を細めて日向ぼっこを楽しんでいた。
(人間どもが我をこの空島に封じ込めてから、もう数百年か。……最初は腹も立ったが、慣れてしまえばここは極楽じゃのう)
ストーム・ルクは、生来の性格が非常に「図太く、マイペース」であった。
彼が封印された理由は至極単純。彼が空を飛ぶだけで、地上の人間の街が台風で吹き飛んでしまうため、「どうか空から降りてこないでください」と、何百人もの魔導師が決死の覚悟でこの空島に彼を隔離したのだ。
(まあ、脆い人間どもからすれば、我が散歩するだけで家が飛ぶのじゃから、迷惑な話じゃったろうて。……それに、ここには我の安眠を邪魔する鬱陶しい羽虫(討伐隊)も来んしな)
東の火山で孤独に絶望していた古竜や、西の深海で諦観に沈んでいたクラーケンとは違い、この神鳥は完全に『気楽な隠居生活』を満喫していたのである。
とはいえ、数百年もただ寝て起きるだけの生活をしていれば、退屈はする。そんな時、彼の脳裏に浮かぶのは、決まって「神話の時代」の騒がしい日々であった。
(……あのアホ共は、今頃どうしておるかのう)
ストーム・ルクは、少しだけ目を伏せた。
「我の炎が一番じゃ!」「いや我の海流こそ至高!」と、顔を合わせるたびに子供のように取っ組み合いの喧嘩をしていた『紅蓮の古竜』と『海溝の主』。
ストーム・ルクはいつも、はるか上空からその様子を「またやっとるわ」と呆れながら眺め、たまに雷を落として仲裁に入っては、三匹で神酒を酌み交わして笑い合っていた。
(風の精霊の噂では、あやつらも人間どもに封じられたと聞いたが……。あの短気なトカゲと、陰気なタコのことじゃ。さぞかし狭い牢獄で、腹を立てたり拗ねたりしておるんじゃろうな)
くくっ、と喉の奥で笑い声を漏らす。
だが、その笑い声は、雲に吸い込まれて虚しく消えていった。
(……また三匹で、くだらん馬鹿話で笑い合いたいものじゃ。……いや、すでに我は人間どもの記憶からも消えた過去の遺物。あやつらと再会するなど、夢のまた夢かのう)
神鳥は、隠居生活の穏やかな日々に満足しながらも、心の奥底にほんの小さな「寂しさ」を抱えていた。
もう二度と、あの日々は戻ってこない。諦めと共に、再び重い瞼を閉じようとした——その時である。
『……ん?』
ストーム・ルクは、不意に風の異常を感じ取り、首を傾げた。
眼下に広がる分厚い雲海が、まるで洗濯機のようにグルグルと不自然に渦を巻き始めている。
(なんじゃ? 下界で大規模な魔法戦でも起きとるのか? ……いや、違うぞ。これは……!)
神鳥の黄金の瞳が、驚愕に見開かれた。
下界から、ものすごいスピードで「二つの巨大な魔力」が昇ってきているのだ。
(凄まじい熱量……この焦げるような乱暴な魔力は、間違いなくあの火のトカゲ(イグニス)! そして、この深海の底のような重圧……あの陰気なタコ(アビス)!?)
ストーム・ルクは巣から飛び起き、信じられないものを見る目で眼下を凝視した。
絶対に交わるはずのない、というか顔を合わせればすぐに喧嘩を始めるはずの「火」と「水」の極大魔力が、仲良く並んで、一直線にこの空島へと向かってきているではないか。
(どういうことじゃ!? 自力で封印を破ったのか? いや、そもそもあやつら、空は飛べんじゃろうに!)
混乱する神鳥。だが、彼が風の魔力でさらに深く探りを入れた瞬間、その「理由」がはっきりと理解できた。
火と水の魔力を、下から押し上げるようにして包み込んでいる『第三の魔力』が存在しているのだ。
(……な、なんじゃ、この魔力は……)
ストーム・ルクは、思わず息を呑んだ。
それは、イグニスの炎よりも暖かく、アビスの海よりも深い。
まるで、太陽そのものが意思を持って彼らを導いているかのような、圧倒的な慈愛と「王の器」を感じさせる、澄み切った魔力の波動。
その未知なる光の主が、神話の時代にすらあり得なかった「火と水の共存」を成立させ、彼らを引き連れて、わざわざこの天の果てまで会いに来てくれているのだ。
『……ふっ。ふははははっ!』
ストーム・ルクの喉から、震えるような笑い声が漏れた。
夢のまた夢だと思っていた。もう二度と、あの騒がしい悪友たちの顔を見ることはないと思っていた。
(馬鹿な奴らじゃ! 我に会うために、こんな得体の知れないバケモノ(主)を連れて、空までカチコミに来るとはのう!)
神鳥の心から、気怠い隠居生活の空気が完全に吹き飛んだ。
失われていた覇者の気迫が、数百年の時を経て完全に蘇る。瑠璃色の羽根が天に向かって大きく広がり、紫電のスパークが空島全体をバチバチと包み込んだ。
『隠居生活は、今日で終わりじゃ!!』
ピィィィィィィッィイイイイイイイイエェェェェェェッ!!!
ストーム・ルクは、空を揺るがすほどの歓喜の産声を上げた。
その凄まじい雷鳴と風圧は、数百年もの間この島を隠し続けていた『不可視の結界』を内側からバリリンッ! と一撃で粉砕した。
雲海が晴れ、輝く太陽の下に、神鳥の姿が完全に顕現する。
『さあ、上がってこい、我の悪友たちよ! そして、お前たちを救い上げた未知なる王よ! 極上の酒でもてなしてやるわい!』
忘れ去られた空の覇者は、かつてない高揚感に胸を震わせながら、雲を割って現れるであろう「最高の来訪者たち」に向けて、羽ばたきの風による最大の歓迎の準備を整えるのであった。




