第79話:深海の触手下座と、忘れ去られた第三の友
第79話:深海の触手下座と、忘れ去られた第三の友
大陸の西、『忘却の海溝』。
絶対に光の届かない暗黒の海を、あり得ない光景が切り裂いていた。
『オラァァァッ! 退けェ、雑魚ども! 我が主のお通りだァァァッ!』
「はははっ、イグニス、そんなに張り切らなくてもいいぞ」
紅蓮の古竜イグニスが放つ圧倒的な熱量と、シンが具現化した水精アクアの加護の魔力が、数千メートルもの水圧を完全に押し除け、海水を左右に真っ二つに割って進んでいく。
まるで巨大な透明のトンネルを滑り降りるように、シン、レオンハルト、ザイード、そしてイグニスの四人は、海底神殿のある最深部へと到達した。
そこには、フジツボやサンゴに覆われた、山のように巨大な軟体魔物が鎮座していた。
かつて海流を支配し、海神の使いと恐れられた『海溝の主』である。彼は無数の目を光らせ、降りてきた一行を……いや、その中心にいるシンの放つ『暖かな魔力』を、食い入るように見つめていた。
『……生きておったか、脳筋のアホトカゲ』
クラーケンの思念が、重低音となって海水を震わせる。
『ふん! 脳筋とはなんだ、このヒキガエルめ! 相変わらず陰気臭い海の底で、貝殻でも数えていたのか!』
イグニスが鼻息を荒くして言い返す。数百年ぶりの再会を果たした神話の魔物同士の、遠慮のない軽口。
しかし、クラーケンはイグニスの瞳の奥にある「歓喜」と、彼を包み込む穏やかな魔力を見て、巨大な触手を微かに震わせた。
『……お前、随分と丸くなったな。かつて世界を焼き尽くそうとしていた怒りが、微塵も感じられぬ』
『当然よ! 我はついに、この身を永遠に捧げるべき「真の主」に出会ったのだからな! さあ、紹介しよう! こちらにおわすお方こそ——』
「初めまして、海溝の主。俺は『深緑の無名奈落』のマスター、シンだ」
イグニスの前口上を遮り、シンが気さくに一歩前に出た。
その瞬間、クラーケンは雷に打たれたように硬直した。
間近で浴びるシンの魔力は、海面から感じ取っていたものよりも遥かに深く、優しく、そして底知れない絶対的な「王の器」を内包していたのだ。
「お前の旧友のイグニスは、うちの防衛階層のボスとして雇うことになった。それで、お前さえ良ければ、お前もうちの『水棲階層のボス』として——」
『行きますッ!!!』
「……またか」
ザイードが額を押さえて天を仰いだ。
『行きます! ぜひ連れて行ってくだされ! 条件など一切不要! 我が触手の一本一本に至るまで、すべて貴方様の意のままに! どうか、どうかこの哀れな軟体動物めを、貴方様の水槽の端っこにでも置いてくだされェェェッ!』
クラーケン・ロードは、イグニスの時と全く同じ……いや、それ以上の凄まじい食い気味の勢いで、数千本ある巨大な触手を海底にビターン! と叩きつけ、見事な『触手下座』を披露したのである。
「お前ら、神話の時代を生きた大物なんだろ? もうちょっとこう、威厳とかプライドとかないのか?」
レオンハルトが呆れ顔でツッコミを入れるが、クラーケンは巨大な目をキラキラ(ヌメヌメ)と輝かせてシンの足元にすり寄るばかりだ。
『プライドなど、この暖かく慈愛に満ちた主の魔力を前にしては何の価値もありませぬ! おおお……! なんという心地よさ……! 数百年の孤独が癒されていく……!』
「まあまあ、わかったから触手で足に絡みつくのはやめろ。ヌルヌルするだろ」
シンは苦笑いしながら、クラーケンの巨大な吸盤をポンポンと叩いた。
「契約成立だ。今日からお前の名前は『アビス』だ。うちの地下湖から続く広大な水棲階層の防衛は、お前に任せるぞ」
『ははぁーッ! 我が主! このアビス、粉骨砕身の覚悟で迷宮の海をお守りいたします!』
自らを縛っていた『封海の呪縛』など、シンの魔力と彼自身の湧き上がる気力であっさりと引きちぎり、アビスは深海の牢獄から完全に解放された。
「よし、これで防衛の要は二人揃ったな。早速、迷宮に帰って歓迎会を——」
シンが背を向けようとした、その時である。
『あ、あの、お待ちくだされ我が主よ』
『そ、そうですぞ。我らから、折り入ってのご相談が……』
イグニスとアビスが顔を見合わせ、もじもじと(巨大な爬虫類と軟体動物がもじもじする様は異様であったが)シンを引き止めた。
「ん? なんだ、まだ何かあるのか?」
『はい。実は我らには、もう一体……神話の時代を共に駆け抜けた『忘れ去られた旧友』がおりまして』
イグニスが真剣な声音で口を開いた。
「もう一体? 火、水と来たら、次はなんだ?」
『空でございます』
アビスが触手で海の上方を指し示した。
『名を『天穿の神鳥』。雷雲を纏い、空を支配した絶対の覇者。……しかし、彼は我ら以上に人間に恐れられ、はるか上空の「不可視の空島」に封印されました。あまりにも強固な隠蔽魔法をかけられたため、現代の人間たちの伝承からは完全に消え去り、忘れ去られてしまった哀れな友なのです』
「……現代では誰も存在すら知らない、天空の神鳥か」
シンの目が、ワクワクとした少年のような光を帯びた。レオンハルトとザイードは、「あ、これ絶対行く顔だ」と顔を見合わせてニヤリと笑った。
「火山の次は深海、深海の次は空島か。……上等だ!」
シンはバンッと両手を打ち鳴らし、最高に楽しそうな覇王の笑みを浮かべた。
「どうせ階層を作るなら、陸海空、全部揃ってた方が絶対面白いからな! 面白え、そいつもまとめてスカウトしに行こうぜ!」
『おおおおおッ! 我が主よ! なんという慈悲深さ!』
『一生ついて行きますぞォォッ!』
かつて世界を二分した炎と海の古代魔物たちを引き連れ、規格外のダンジョンマスターは、伝承から消え去った第三の旧友を求めて、休むことなく天の果てへとその歩みを進めるのであった。
シンの飽くなき「仲間集め」は、ついに神話の歴史すらも掘り起こし、世界の常識を完全に塗り替えていく。




