第78話(閑話):深海の諦観と、海を割る陽光
第78話(閑話):深海の諦観と、海を割る陽光
大陸の西。一切の光が届かぬ絶対零度の暗黒——『忘却の海溝』の最深部。
水圧で鉄すらも紙のようにひしゃげるその極限環境の底に、かつて海神の使いとして崇められた巨大な古代の神殿が沈んでいる。
その神殿に巻き付くようにして、山のように巨大な『何か』が横たわっていた。
『海溝の主』。
無数の太い触手は神殿の柱に幾重にも絡みつき、その巨大な頭部や吸盤には、数百年という月日を物語るように分厚いサンゴやフジツボがびっしりと寄生している。
(……静かだ。波の音すらも届かぬ、よき微睡みよ)
神殿に施された『封海の呪縛』によってこの海底に縫い付けられている彼は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一つだけ目を開けた。
視界にあるのは、ただ果てしない黒と、深海魚の微かな発光のみ。
彼は元々、荒れ狂う海を鎮め、豊かな漁場を人間に分け与える穏やかな性格の魔物であった。
しかし、人間の強欲さは海産物だけでは飽き足らず、彼の持つ『海流を操る魔石』へと向けられた。数百年前に大船団を組んで攻めてきた人間たちを、彼はただ「追い払う」ためだけに波を起こした。だが、人間たちはそれを「邪神の怒り」と勝手に解釈し、何人もの高位魔導師の命と引き換えに、彼をこの光の届かぬ深海へと封じ込めたのだ。
(数十年に一度、水棲魔法を身に纏った人間どもが、我を討伐しようと降りてくるが……彼らの放つ殺意や欲望の、なんと小さく、濁っていることか)
思い出すだけで、溜息の代わりに巨大な気泡が海中へ上っていく。
彼らは「邪神討伐」という名誉に酔いしれ、豆鉄砲のような魔法を撃ち込んでくる。クラーケン・ロードはそれに怒る気すら起きず、ただ触手を一本軽く振るって海流を起こし、彼らを海面へと押し返してやるだけだった。
(人間という短命な種族は、本当に滑稽で、悲しい生き物だ。……世界が魔力に満ち、あらゆる命が共に歌っていたあの時代は、もう二度と訪れぬ)
クラーケン・ロードの脳裏に、ふと、遙か東の活火山に封じられているであろう「旧友」の顔が浮かんだ。
(あの短気なトカゲ……『紅蓮の古竜』は、今頃どうしているだろうか。我と同じように人間に絶望し、鎖に繋がれて己の炎を持て余しているのだろうな)
属性は水と火で正反対。性格も、静寂を好む自分と、喧嘩っ早い古竜とではまるで合わなかった。だが、神話の時代に共に酒を酌み交わし、世界を見守った記憶だけは、この冷たい深海で彼を慰める唯一の温もりであった。
(もう、よい。……我も彼も、この世界にはとうに不要な遺物なのだ)
クラーケン・ロードは再びゆっくりと目を閉じ、意識を海流に溶かそうとした。
自らの魔力を少しずつ海に還元し、数十年、あるいは数百年かけて完全なる「自然の一部」へと還る。一種の『悟り』にも似た諦観。彼は自らの命を終わらせる準備に入っていた。
——だが、その完全なる静寂は、海面のはるか上方から伝わってきた『信じられない魔力の波紋』によって激しく乱された。
(……な、なんだ?)
クラーケン・ロードは、数百年ぶりに複数の目を一斉に見開いた。
水という物質は、音や魔力を非常に正確に伝達する。その深海の静寂を切り裂いて降りてきたのは、絶対にあり得ないはずの『気配』だった。
(この乱暴で、しかしどこか懐かしい魔力の波長……! 間違いない、あのアホトカゲ(古竜)だ! なぜ、火の塊であるあいつが、海の真上にいる!?)
自力で封印を破ったのか? いや、あの古竜にもそんな気力は残っていなかったはずだ。
驚愕に触手をうねらせるクラーケン・ロード。だが、彼をさらに混乱させ、そして魂の奥底から激しく揺さぶったのは、旧友の気配の「隣」にある、もう一つの魔力であった。
(な、なんだ、この魔力は……!?)
深海の冷たさを一瞬で忘れさせるほどの、圧倒的に『暖かく、澄み切った波動』。
人間の放つ血生臭い欲望とは対極にある、海そのものよりも深く、太陽よりも眩い慈愛の魔力。
それは、クラーケン・ロードが諦め、永遠に失われたと思っていた「神話の時代」の息吹そのものであった。
(この暖かな光は……あの時代よりも、さらに純粋で、満ち足りている……。一体、誰だ? 何者が、あのアホトカゲを引き連れてきているのだ?)
クラーケン・ロードは魔力探知を全開にし、海面付近の様子を探った。
そして——彼は我が目を疑った。
(……嘘だろう?)
旧友である紅蓮の古竜の魔力から、かつての「怒り」や「悲しみ」が完全に消え去っていたのだ。それどころか、まるで「飼い主に褒められて喜ぶ子犬」のように、その暖かな魔力の主に対して歓喜と忠誠を振りまいているではないか。
(あの、世界で一番プライドが高かった古竜が……あんなにも無邪気に、誰かに懐いているだと……!?)
信じられない光景。しかし、その事実がクラーケン・ロードの凍りついていた心を、急速に解かしていく。
(あいつは……あのトカゲは、我を助けに来たのだ。この、太陽のように暖かな『主』を連れて!)
悟りなど、もうどうでもよかった。
消えかけていた命の炎が、凄まじい勢いで再燃していくのを感じる。
この暖かな魔力に、直接触れてみたい。彼らが一体どんな顔をして、この絶望の深海まで自分を迎えに来てくれたのか、この目で見たい。
メリメリメリッ……!
クラーケン・ロードの巨大な身体が動き、神殿を覆っていたサンゴやフジツボが次々と剥がれ落ちていく。
(来い……! 我が友よ! そして、友の心を救った未知なる光よ!)
海溝の主は、自らを縛る封海の呪縛を内側からギリギリと引き絞りながら、数百年ぶりに歓喜の産声を上げた。
光の届かぬ暗黒の海底で、古き神話の魔物は、海を割って降りてくるであろう「奇跡の再会」を、震えるほどの期待と共に待ちわびるのであった。




