第76話(閑話):灼熱の牢獄と、懐かしき陽光
第76話(閑話):灼熱の牢獄と、懐かしき陽光
東の果てにそびえる、活火山『イグニス』の最深部。
岩をも溶かす煮えたぎるマグマの海の中央に突き出た黒曜石の孤島で、「彼」はただ静かに目を閉じていた。
『紅蓮の古竜』。
かつては空を真紅に染め上げ、炎を司る神の使いとして畏怖された偉大なる竜。しかし今のその姿に、かつての威容は見る影もなかった。
巨大な体躯は数百本もの幾重にも呪いが編み込まれた『封魔の鎖』によって大地に縫い付けられ、ルビーのように美しかった鱗は煤と傷に塗れている。
(……あぁ。また、月が満ちたか)
古竜は重い瞼をわずかに開け、火口の遥か上方に広がる小さな丸い空を見上げた。
ここに封印されてから、いったい幾星霜の時が流れただろうか。三百年か、四百年か。もはや数えることすらとうにやめてしまった。
人間という生き物は、自分たちの理解を超えた圧倒的な力(自然)を、理由もなく恐れ、あるいは利用しようとする。
古竜はただ山で静かに眠っていただけだった。だが、人間の王たちは「火山の噴火はあの悪竜の仕業だ」「あの鱗と牙を国宝にしろ」と勝手な理屈をつけ、何万という軍勢と幾人もの大魔導師を犠牲にして、彼をこの火口の底へ封じ込めたのである。
(愚かなことだ。……我を封じた王も、魔導師どもも、とうの昔に土に還ったというのに)
古竜の内心に渦巻くのは、もはや人間に対する「怒り」や「憎しみ」ではなかった。
ただただ、圧倒的な『疲労』と『虚無』である。
数十年に一度、己の腕試しや名声を求める愚かな討伐隊がこの火口を訪れる。彼らが放つ、欲望、恐怖、虚栄心、そして見当違いの殺意に満ちた「濁りきった魔力」を浴びるたび、古竜の精神は少しずつ、確実に摩耗していった。
(もう、よい。……炎よ、消えよ。我はもう、眠りたい……)
繋がれた鎖を引きちぎる力は、とうに残っている。しかし、彼にはもう鎖を断ち切り、再び外の空気を吸おうという「気力」そのものが完全に枯渇していた。
このまま誰にも知られず、マグマの熱と同化し、静かに岩となって消滅する。それが今の彼にとっての、唯一の救いにして望みであった。
——だが、その「静かなる死の待望」は、突如として火口の上方から降り注いだ『未知の波動』によって打ち砕かれた。
(……む?)
古竜は閉じかけていた目を、ハッと見開いた。
火口を降りてくる「何か」の気配。また人間の討伐隊かと思ったが、全く違う。
これまで何百年と浴び続けてきた、人間のドロドロとした欲望や、魔物たちの血生臭い魔力ではない。
それは、信じられないほどに『暖かく、深く、澄み切った魔力』であった。
(な、なんだ、これは……? なんという心地の良い、柔らかい波だ……)
それはまるで、春の陽光のようであった。
マグマの灼熱とは違う、魂の奥底、凍りついていた孤独を中和し、ゆっくりと溶かしていくような、圧倒的な「優しさ」を伴った熱量。
さらに古竜を驚かせたのは、その魔力の波動の中に、数百年、いや、数千年も前に忘れ去っていたはずの『ある記憶』を呼び覚ます響きが含まれていたことだ。
(この匂い……この暖かさは……『神話の時代』の気配……?)
古竜の脳裏に、遠い昔の記憶がフラッシュバックする。
世界がまだ若く、人間もエルフも魔物も、あらゆる種族が大地と星の魔力を共有し、無邪気に笑い合っていた時代。争いもなく、ただ純粋な命の輝きだけが世界を満たしていた、あの豊かで美しい日々の記憶。
神話級コアをその身に宿したダンジョンと、種族の壁を越えて手を取り合うシンの迷宮の「幸福なオーラ」が、シンの魔力に重なり合い、古竜の魂に直接語りかけてきたのだ。
ドクン、ドクン。
消えかけていた古竜の心臓が、数百年の時を経て、強く、激しく脈打ち始めた。
(……あぁ。なんという、懐かしさだ。ずっと……私はずっと、この暖かさに触れたかったのだ……)
古竜の両目から、大粒の涙が溢れ出し、ジュワッとマグマに落ちて蒸発した。
この暖かな魔力を放つ者が、何者かは分からない。
人間かもしれないし、別の何かかもしれない。自分を討伐しに来たのかもしれないし、ただの通りすがりかもしれない。
だが、そんなことはもはや、古竜にとってはどうでもよかった。
(もし……もし、この暖かな光の主が、我に死を与えに来たというのなら、喜んでこの首を差し出そう。だが、もし……もし、我に手を差し伸べてくれるというのなら……)
数百年の孤独と絶望は、シンの放つ覇王のオーラと絶対的な慈愛の前に、姿を見るより先に完全に氷解していた。
古竜は、全身の力を振り絞り、ギチギチと鎖を鳴らして重い首を高く持ち上げた。
——バキンッ!!
やがて、火口を塞いでいた封印の結界が、外側から軽々と叩き割られる澄んだ音が響いた。
(来い……! 我が、真の主よ……!)
紅蓮の古竜は、これから現れるであろう「運命の者」の姿を瞳に焼き付けるべく、かつての誇り高き威厳と、子犬のような無防備な期待をないまぜにしながら、降り注ぐ光の方へとまっすぐにその視線を向けたのであった。




