第70話:無血の制圧と、聖王国の終焉
第70話:無血の制圧と、聖王国の終焉
獣人連邦の南の国境線。
洗脳され、生気を失った瞳で狂ったように突撃を繰り返す「ドガ公国」の大軍を前に、上空に浮遊する一人の狂気の学者が杖を掲げた。
「ふはははは! 哀れな操り人形どもめ。我が師の慈悲と、科学の叡智によって安らかなる夢の世界へ旅立つがいい!」
異端の魔導学者ファウストが魔力を解放する。彼が展開したのは、地球の科学知識を応用した全く新しい術式——『広域・低酸素睡眠陣』であった。
軍隊の頭上の空気中から「酸素」の濃度だけを一時的に、かつ緻密に低下させ、そこに強力な睡眠の魔力を乗せて散布する。
すると、前衛の装甲兵から後方の弓兵に至るまで、数万のドガ公国軍は「カクンッ」と糸が切れたように次々とその場に倒れ込み、安らかな寝息を立て始めた。
「な、なんだと……!? 一撃で数万の軍勢が無力化されたぞ!」
防衛線を敷いていた獣人の将軍が、信じられないものを見る目で絶叫する。
一方、時を同じくして。エルフの大樹の森の西国境。
「エルダー・トレント殿! お願いいたします!」
「うむ。若き命たちよ、少しの間、土の温もりに抱かれておれ!」
エルフのリリアと古代樹エルダー・トレントの魔力が大地に注ぎ込まれると、突撃してきていた「アルテア王国」の軍勢の足元から、大人の胴回りほどもある巨大な柔らかい「樹木の根」が無数に隆起した。
根は兵士たちを傷つけることなく、剣や槍を絡め取り、ミノムシのようにグルグル巻きにして完全に拘束していく。
かくして、二つの国境に押し寄せていた数万の軍勢は、互いに一滴の血も流すことなく、ものの数分で完全に制圧されたのである。
***
「……ば、馬鹿な。洗脳した前衛部隊が、手も足も出ずに止められただと!?」
ドガ公国軍の後方、安全な天幕の中でふんぞり返っていた「聖王国の洗脳神官」は、水晶に映る光景を見て血の気を引かせた。
「ええい! 術式を強化しろ! あいつらの命を削ってでも、無理やり動か——」
「無駄だぜ、クソ野郎」
背後から響いた冷酷な声に、神官が振り返る暇はなかった。
空間の歪みから音もなく現れた豹獣人のクロウと、双剣のザイード。彼らの刃が銀光を描いた瞬間、天幕の中にいた数名の洗脳神官の首は、驚愕の表情を浮かべたまま胴体からポロリと滑り落ちた。
「キキッ。これで作戦完了だ。ミラージュの旦那、アルテア王国側はどうだ?」
『こちらも片付きました。狂信派の神官たちはすべて排除。……これより、洗脳の術式が解けます』
通信用の魔石から、ミラージュの平坦な声が響く。
神官たちが絶命したことで、両国の軍隊と上層部を縛っていた「精神操作の魔法」が完全に霧散した。
洗脳から解放され、自分たちが同盟国を滅ぼそうとしていた事実に気づいたアルテア王国とドガ公国の上層部は、真っ青になって震え上がった。
『も、申し訳ございません!! 我々は聖王国の残党に王族を暗殺され、心を操られていたとはいえ……とんでもない過ちを!』
直後に行われた通信会議で、両国の大臣や将軍たちは、地面に頭がめり込むほどの土下座をしてエルフと獣人に謝罪した。
事の顛末をすべて把握しているシンは、同盟国を代表して厳かに告げた。
「洗脳されていた事情は汲む。だが、手を出したという事実は消えない。莫大な賠償金の支払いと、今回軍を動かした上層部の総入れ替え……それを約束するなら、これ以上の報復はしない」
『は、ははぁっ! 当然の報いにございます! 全財産を投げ打ってでも、必ずや償いを!』
こうして、二つの隣国は身を切るような賠償と指導部の交代という「当然の落とし前」を背負うことで、許しを得た。シンの陣営は、無血で戦争を終わらせた上に、同盟国の国庫を潤すことにも成功したのである。
***
だが、シンの「清算」はこれで終わりではなかった。
「……操られていた連中への処罰は済んだ。だが、糸を引いていた本物の『巨悪』を野放しにしておくほど、俺はお人好しじゃない」
マスターズ・チェンバーに戻ったシンは、帰還した暗殺部隊——レオンハルト、ザイード、クロウ、そしてミラージュを見渡した。
「聖王国の本国に潜む『狂信派』の幹部たちを、一人残らず根絶やしにしてこい。そしてミラージュ……奴らが今回の代理戦争を企てたという『動かぬ証拠』を、関係各国にすべてぶち撒けろ」
「「「御意!!」」」
その夜。
聖王国ルシリスの王都は、音のない殺戮の舞台となった。
ミラージュの完璧な先導により、退魔の結界も王宮の警備もすり抜けたレオンハルトたちは、次なる陰謀を企てていた狂信派の枢機卿や異端審問官たちの寝室へ潜入。彼らが悲鳴を上げる隙すら与えず、次々とその命を刈り取っていった。
そして翌朝。
大陸中のあらゆる国家——獣人連邦、エルフの森、商業共和国、自由都市など——の王族の執務室に、一通の「分厚い告発書」が届けられていた。
そこには、聖王国が隣国を洗脳して同盟国同士を潰し合わせようとした、おぞましい『代理戦争の全貌』が、神官長のサイン入りの密書と共に記されていたのである。
「おのれ、聖王国ルシリス! どこまで腐りきっていれば気が済むのだ!」
「これ以上の蛮行を許すな! 大陸の平穏を脅かすガン細胞め!」
度重なる非道な行いと、他国を巻き込む陰謀。
これに完全に激怒した周辺諸国は、歴史上初めて完全に結託し、数十万規模の『多国籍連合軍』を結成。指導層を失い、完全に混乱状態にあった聖王国ルシリスへと怒涛の進軍を開始した。
もはや聖王国に抗う力は残されていなかった。
連合軍は王都へ無血開城させると、腐敗していた聖騎士や神官たちをすべて武装解除し、投獄。長きにわたり大陸で傲慢に振る舞い、シンの仲間たちを不当に虐げてきた宗教国家は、ここに完全に解体された。
領土は連合軍による「共同管理領」となり、歪んだ内政は他国からの監視によって徹底的に浄化されていくこととなる。
圧倒的な武力、完璧な情報、そして血を流さぬ知略。
そのすべてを統べるシンの手により、テラ・マグナ大陸の勢力図は完全に書き換えられ、彼の『深緑の無名奈落』は、もはや誰も抗うことのできない「世界の真の支配者」としての座を、確固たるものとしたのであった。




