第68話:砂漠の蜃気楼と、崩れゆく砂上の楼閣
第68話:砂漠の蜃気楼と、崩れゆく砂上の楼閣
はるか南東に位置する『砂漠の商業国カディス』。
極度の魔力枯渇により国土のオアシスが次々と干上がったこの国で、王都の城壁の外に広がるスラム街は、文字通りの『地獄』と化していた。
唯一残った王都の大オアシスは王族と大商人によって武力で独占され、スラムの民たちは泥水を啜り、法外な水代を払うために過酷な日雇い労働で命を削っていた。毎日何百人もの餓死者や病死者が砂に埋もれていく中、人々の目からは完全に希望の光が失われていた。
——だが、ここ数日の間に、絶望に沈むスラム街で「ある噂」が囁かれるようになっていた。
『なあ、聞いたか? はるか北の森の地下に、天国のような「理想郷」があるって話を』
『ああ。そこでは水も食料も無尽蔵に湧き出し、住む家は無償で与えられ、働けば働くほど豊かになれる仕事が溢れるほどあるらしい……』
最初は、渇きが見せた蜃気楼のような幻話だと思われていた。
しかし、その噂はあまりにも具体的で、魅力に満ちていた。「ドワーフの職人が建てた頑丈な家」「古代樹が実らせた黄金の麦」「水精の歌姫が管理する蒼き地下湖」。それらの情報が口伝てに広がるにつれ、スラムの民たちの乾ききった心に、抗いがたい『希望の熱』が帯びていったのである。
そして、噂がスラム全土に行き渡り、人々の熱気が最高潮に達した星降る夜。
スラムの中心にある広場に、灰色の外套を羽織った一人の「行商人」が音もなく姿を現した。
「……絶望に喘ぐ、砂漠の民たちよ」
行商人に変装した諜報長官・ミラージュの声は、魔力によってスラムの隅々にまで静かに、しかしはっきりと響き渡った。
「貴方たちが夢見た理想郷は、蜃気楼ではありません。私は、その『深緑の無名奈落』の主より遣わされた案内人です」
ミラージュが外套を翻すと、その手には透明なガラス瓶が握られていた。蓋を開けた瞬間、スラムの淀んだ空気を一掃するほどの、圧倒的に清らかで芳醇な『水精の純水』の匂いが広がった。
「おお……! 水だ! 本物の、綺麗な水だ……!」
「我が主は、貴方たちの強靭な肉体と、生き抜くための叡智(労働力)を求めています。……あの残酷な城壁を捨て、共に理想郷へと旅立つ覚悟はありますか?」
その問いに、スラムの民たちは一秒の迷いもなく首を縦に振った。
彼らにはもはや、この国に対する未練など砂粒一つほども残っていなかった。
「……契約は成立しました。さあ、我が主がもたらす『奇跡』を刮目なさい」
ミラージュが合図を送った瞬間。
スラム街の巨大な大地そのものが、眩いばかりの蒼光に包まれた。
はるか北の迷宮から、ダンジョンコアのルリを通じてシンが莫大なDPを注ぎ込み、スラム街全域を覆い尽くすほどの『超巨大転送魔法陣』を展開したのだ。
「皆の者! 光の陣から足を踏み外さないように! 新しい故郷が、貴方たちを待っています!」
ミラージュの叫びと共に、蒼い光が天を衝いた。
次の瞬間——数十万にも及ぶスラムの民たちは、家財道具や家畜もろとも、文字通り「一夜にして」砂漠から完全に姿を消したのである。
***
翌朝。
城壁に守られた王都の宮殿では、王族や大商人たちが冷たい果実酒を傾けながら、優雅な朝食の宴を開いていた。
「はっはっは。今日も良い天気だ。外の貧民どもは、我々のためにせっせと荷を運び、ゴミを片付けていることだろう」
「ええ。水という生命線を握っている限り、奴らは永遠に我々の奴隷。カディス王国は安泰ですな」
彼らは高笑いし、城壁の外の異変になど微塵も気がついていなかった。
彼らにとって、スラムの民とは「勝手に湧いてきて、勝手に街の汚れ仕事をしてくれる虫」程度にしか認識されていなかったからだ。今日一日、街の掃除が行われていなくても、市場に荷馬車が到着していなくても、「怠け者どもめ」と鼻で笑うだけで、誰も外の様子を見に行こうとはしなかった。
——その圧倒的な慢心と無関心が、彼らの首を真綿で絞めていることに気づいたのは、それから「数日後」のことであった。
「お、王様ァァァッ!!」
王宮の玉座の間に、大臣が血相を変えて転がり込んできた。
「た、大変でございます! 王都の物流が完全にストップしております! 下水は溢れ返り、市場には食料が届かず、ゴミが腐敗して街中に悪臭が漂っております!」
「な、何事だ!? スラムの労働者どもは何をしている! 水代を十倍に引き上げると脅してこい!」
「そ、それが……!!」
大臣は白目を剥き、恐怖にガチガチと歯を鳴らした。
「い、いないのです! スラム街に、人間が一人も……! いや、人間どころか、ネズミ一匹、荷車一台すら残っておらず、ただ砂風が吹き荒れる『もぬけの殻』となっているのですゥゥッ!!」
「——なっ!?」
カディス王は玉座から転げ落ちた。
労働力。
それは、国を根底から支える最も重要な『血液』である。
王族や大商人がどれほど富と水を独占していようと、それを運ぶ者、街を整備する者、泥水に塗れて働く数十万の民がいなければ、国家という巨大な機構は一日たりとも機能しない。
その絶対的な真理を、彼らは血の巡りが完全に止まり、体が腐り始めてからようやく理解したのだ。
「ば、馬鹿な! 数十万の人間が、どこへ消えたというのだ!? 探せ! 砂漠の果てまで兵を出して、奴らを連れ戻せェェェッ!」
カディス王は発狂したように絶叫したが、王都の兵士たちですら、明日の食料と水の配給が絶たれたことで暴動を起こし始めていた。
搾取する相手を失った支配者たちは、自分たちではゴミ一つ片付けることもできず、溢れ返る汚水と飢えの中で、自らが築き上げた砂上の楼閣とともに無惨に崩れ去っていく。
一方その頃。
『深緑の無名奈落』に到着した数十万の砂漠の民たちは、広大な農地と溢れんばかりの純水に涙を流して歓喜し、その強靭な肉体をもって、迷宮都市のさらなる巨大化(労働)に凄まじい熱量で取り掛かっていた。
血を流すことも、剣を交えることもなく。
ただ「人を救う」という究極の内政によって、シンの迷宮は一国の命運をいとも容易く摘み取り、自らの国を、大陸の誰もがひれ伏す超巨大国家へと押し上げたのである。




