第64話:禁書塔の賢者と、異世界の真理
### 第64話:禁書塔の賢者と、異世界の真理
大陸の北の果て、一年中猛吹雪が吹き荒れる未開の魔境。
凶悪な魔獣すら寄り付かない氷の荒野の真ん中に、黒い歪な石を積み上げて作られた不気味な巨塔がそびえ立っていた。
——『禁書塔』。
あらゆる学会から追放された狂気の天才、『異端の魔導学者・ファウスト』が引き籠る知識の魔城である。
「……ひどい吹雪ですね。スノー・フリースの毛皮のコートがなければ、ここまで辿り着く前に凍死していたでしょう」
ガストンが身震いしながら塔を見上げる。
「全くだ。だが、この強力な吹雪そのものが、塔を守る『魔法陣』の一部になっているようだな。……面白い」
シンはニヤリと笑い、レオンハルトを伴って塔の重厚な扉を押し開けた。
塔の内部は、文字通りの『混沌』であった。
何万、何十万という分厚い魔導書が、まるで意志を持っているかのように宙を飛び交い、床には得体の知れない魔法薬が煮えたぎる大鍋が散乱している。
その部屋の中央にある乱雑な机に向かい、一心不乱に羊皮紙に羽ペンを走らせている男がいた。
「——帰れ。王族の使いかギルドの犬か知らんが、俗物の相手をしている暇はない。そこにある魔導具が目当てなら、適当に持っていくがいい」
振り返りもせず言い放った男。ボサボサの白髪に、度の強い片眼鏡をかけた痩せぎすの男こそが、ファウストその人であった。
「初めましてだな、学者先生。俺は『深緑の無名奈落』っていう迷宮のマスター、シンだ。あんたのその極上の頭脳をスカウトしに来た」
シンが声をかけると、ファウストはピタリとペンを止め、ひどく面倒くさそうに振り返った。
「ダンジョンマスター……だと? ふん、金か? 地位か? それとも女か? どれも不要だ。私が求めているのは、この世界の魔法の根源……絶対的な『未知の真理』だけだ。迷宮の主ごときが、私の知的好奇心を満たせるとでも?」
「どうだろうな」
シンは肩をすくめ、彼が食いつきそうな餌を並べ始めた。
「うちの迷宮には、世界の概念から外れたダンジョンコアのシステムがある。水精の歌姫が創る純度100%の魔力水もある。それに先日、聖王国の宝物庫を空っぽにしてきたから、国宝級の未解析魔導具も山ほどあるぜ」
「……ほぅ?」
ファウストの片眼鏡の奥の瞳が、僅かに光った。
「水精の純水に、聖王国の国宝だと? ……ふむ、悪くない実験材料だ。三ヶ月……いや、半年ほどなら、お前の迷宮に滞在して研究してやってもいいぞ」
かなり心が揺らいでいるようだが、まだ「迷宮に完全に骨を埋める」というほどの熱狂はない。あくまで上から目線の態度だ。
それを見たシンは、不敵な笑みを深くした。
(よし。この世界の魔法の常識じゃ、あんたの知的好奇心は完全に満たせないってことだな。……なら、『俺のいた世界(地球)』の真理ならどうだ?)
「ファウスト。あんたは『火の魔法』で爆発を起こす時、何をどうやって計算してる?」
「は? 何を言い出すかと思えば。当然、空気中の火の精霊の魔力を束ね、マナの圧縮率と術者の精神力を掛け合わせて——」
「違うな」
シンはファウストの言葉を遮り、一歩前に出た。
「空気には、燃焼を助ける『酸素』という気体が含まれている。そして気体には、圧力、体積、温度の間に絶対的な相関関係があるんだ。……俺の知る世界では、それをこう書き表す」
シンは指先に微弱な魔力を込め、空中に光る文字で「ある方程式」を書き記した。
「圧力(P)と体積(V)は、気体のモル数(n)、気体定数(R)、そして絶対温度(T)に比例する。……『気体の状態方程式』だ。これを知っていれば、火の魔法で空気を熱した際、どれほどの体積膨張が起きて、どれだけの破壊力(圧力)を生み出せるか、感覚ではなく『完全な数式』として導き出せる」
「な……ッ!?」
ファウストの羽ペンが、ポトリと床に落ちた。
「さらに言おう。あんたたちは水を作る時『水の魔力』を呼び出すと思っているが、水は元素じゃない。水素と酸素っていう二つの異なる物質が結びついた『化合物』だ。あらゆる物質は『原子』っていう極小の粒子の組み合わせでできている」
シンは記憶の底にある現代科学の知識——原子の概念、熱力学の法則、そして万物の質量とエネルギーの等価性を示す究極の方程式 E = mc^2 までをも、噛み砕いて空中に描き出してみせた。
「魔力は無から有を生み出してるんじゃない。質量とエネルギーは等価であり、形を変えて循環しているだけなんだよ」
——静寂。
禁書塔の中を飛び交っていた魔導書が、主の激しい動揺に当てられて次々と床に墜落していく。
「あ……あ、あ……ッ!!」
ファウストの全身が、ガタガタと激しく震え始めた。
彼の脳内で、これまで積み上げてきた「感覚的」な魔法の常識が音を立てて崩れ去り、シンの提示した「科学という名の絶対的真理」によって、新たな宇宙が爆発的な勢いで構築されていく。
「な、なんという美しさ……! なんという論理性! 魔法が……世界が、ただの現象ではなく、絶対的な数式と法則で結びついているだと……!?」
ファウストは狂気じみた歓喜の声を上げながら、シンの書き出した光の方程式の前に這いつくばった。
「ああああッ! 分からない! 私にはまだ、貴方の言葉の半分も理解できない! 水素とはなんだ!? 絶対温度とはなんだ!? もっと……! もっとその未知の叡智を、私に教えてくれェェッ!!」
当代一の天才学者が、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、シンの足元にすがりついた。
「教えてほしけりゃ、俺の国に来い。聖王国の宝物庫の解析と、迷宮の技術開発のトップをやってくれるなら、俺の知る『別の宇宙の真理(地球の科学)』を、いくらでも教えてやる」
「行きますッ!! 行かせてください我が師!! 魂の髄まで貴方の迷宮に捧げますゥゥッ!!」
——勝負あり、である。
知識欲の化け物である彼にとって、シンの提示した科学の概念は、いかなる金銀財宝よりも価値のある「究極の麻薬」であった。
「荷物をまとめます! 3秒お待ちを!」
ファウストが両手を天に掲げると、塔内にあった数十万冊の魔導書や研究機材が、凄まじい勢いで圧縮され、彼が首から下げていた空間収納の魔石へと吸い込まれていった。文字通り、3秒で塔の中が空っぽになった。
「……す、すげえ。本当に3秒で引っ越し準備が終わったぞ」
呆気にとられるレオンハルトとガストンをよそに、シンはしてやったりの笑みを浮かべた。
「よし、面接合格だ。俺たちの迷宮に、『最高の頭脳』を迎え入れようぜ!」
魔法の常識しか存在しない世界に、地球の「科学・物理」の概念を持ち込んだシン。
その異世界の叡智と、ファウストという天才的な頭脳が融合した時、『深緑の無名奈落』の技術力は、神々の領域にすら足を踏み入れるほどの爆発的進化を遂げることになるのである。




