第63話(閑話):千の顔の暗躍と、音なき崩壊
第63話(閑話):千の顔の暗躍と、音なき崩壊
「情報とは、水のようなものです。正しい場所に一滴垂らすだけで、強固な岩盤をも内側から砕くことができる」
『深緑の無名奈落』の初代諜報長官に就任したミラージュは、シンから与えられた無尽蔵のDP(活動資金)を懐に忍ばせ、すぐさま大陸中へとその姿を散らせた。
ある時は薄汚れた浮浪者として貧民街に潜り込み、ある時は豪奢な服を着た他国の商人としてギルドの酒場に座り、またある時は敬虔な神官として教会の奥深くまで入り込む。
千の顔を持つ彼(彼女)にとって、大陸のあらゆる組織の裏側に潜り込むことなど、赤子の手をひねるより容易いことであった。
ミラージュが最初に標的としたのは、恐怖と疑心暗鬼に陥っていた戦闘狂の派閥『暴食の狂宴』であった。
残る十人のマスターたちは、シンの迷宮や帝国との小競り合いで戦力を削られ、「次に誰が狙われるか」と極度の緊張状態にあった。
そこへ、ミラージュは絶妙なタイミングで「毒の滴」を垂らした。
南の迷宮のマスターには、配下の魔物に化けて『総帥が、我々の弱体化を補うために、貴方様のコアを吸収しようと軍を差し向けました!』と報告させる。
北の迷宮のマスターには、かつて内通していた『悠久の賢人会』の蝙蝠のマスターの筆跡を完璧に偽造し、『西のマスターが我々に寝返った。近日中に貴殿の背後を突く手はずだ』という密書をわざと落として拾わせた。
「な、なんだと……ッ!? やはり、総帥は我々を切り捨てる気か!」
「西の裏切り者め! やられる前に、こちらから喰い破ってやる!」
元より知略を持たず、暴力しか信じない彼らの猜疑心は、これらの偽情報によって一瞬で沸点に達した。
真偽を確かめる対話の場すら持たず、彼らは防衛のために蓄えていた魔物の大軍を、なんと『同じ派閥の仲間』の迷宮へと一斉に出撃させたのである。
「殺せェェッ! 裏切り者のコアを奪え!」
「総帥の首を獲れ! 俺がこの狂宴の新たな覇者となるのだ!」
かくして、誰も外側から手を出していないにもかかわらず、『暴食の狂宴』の内部で十万規模の魔物同士が殺し合う、壮絶な「共食い」が幕を開けた。
互いの迷宮の罠を破壊し、DPを限界まですり減らし、コアを砕き合う血みどろの自滅劇。この時点で、大陸の裏社会を数百年支配してきた『暴食の狂宴』という組織は、事実上完全に消滅したも同然であった。
***
一方、時を同じくして。
聖王国ルシリスの王都では、神官長をはじめとする上層部が、血走った目で極秘の軍議を開いていた。
「宝物庫の財宝が根こそぎ奪われた事実が露見すれば、我が国の経済は破綻する! 早急に国庫を潤さねばならん!」
「結界師セレンが消えたことで防衛もままなりませんが、背に腹は代えられません。東の小国・エルメア公国は資源が豊富で軍事力も貧弱。あそこに『異端者が潜んでいる』と因縁をつけ、聖戦の御旗のもとに侵略し、根こそぎ略奪しましょう!」
腐りきった上層部による、弱小国への非道な侵略計画。彼らは他国の犠牲の上に自国の失態を帳消しにしようと企んでいた。
……しかし、彼らは気づいていなかった。その極秘会議の円卓の隅で、彼らにお茶を注いでいた「平凡な顔の下働きの修道士」が、一言一句漏らさずにその計画を記憶し、さらには神官長の印璽が押された『侵略の作戦図』の原本を、すでに巧妙な手口で偽物とすり替えていたことに。
翌朝。
聖王国がエルメア公国に向けて軍を進発させようとした、まさにその時である。
「し、神官長様ァァッ! た、大変です!!」
「またか! 今度は何だ!」
転がり込んできた伝令兵の報告に、神官長は目の前が真っ暗になった。
「エルメア公国との国境が、完全に封鎖されました! それだけではありません! 商業共和国ヴァロワ、獣人連邦、さらには北の帝国軍までもが、一斉に我が国に対して『不当な侵略行為への抗議と、完全な経済制裁』を発表する声明を出しました!」
「な……なんだと!? なぜ、今日の今日立案したばかりの侵略計画が、周辺諸国すべてに筒抜けになっているのだ!?」
「そ、それが……!」
伝令兵は震える手で、一枚の羊皮紙を差し出した。
「今朝早く……大陸中のすべての王族の寝室、および各国の冒険者ギルドの掲示板に、『我が国の侵略計画の詳細な作戦図』と、地下牢で行われていた『非道な人体実験の証拠品(告発状)』が、何者かによって一斉にばら撒かれていたのです!」
「——ッ!!?」
神官長は泡を吹いてその場に卒倒した。
他国への侵略の口実が完全に潰されたばかりか、自国の非道な行いが世界中に暴露されたのだ。周辺諸国からの経済封鎖により、ただでさえ宝物庫を失っていた聖王国の物価は一瞬で跳ね上がり、街では怒り狂った民衆による暴動が各地で火の手を上げ始めていた。
軍を動かすこともできず、他国からの支援も絶たれ、国内の反乱に怯える日々。
聖王国ルシリスは、物理的な攻撃を一切受けることなく、完全に「封じ込められ」、国としての死を待つだけの存在へと成り下がったのである。
***
その日の夕刻。
『深緑の無名奈落』の迎賓の間にて。
「——というわけで、狂宴の連中は互いの迷宮で共食いを始め、聖王国は完全に孤立し暴動の鎮圧に追われています。当分、彼らがこちらに干渉してくる余力はないでしょう」
灰色の外套を羽織ったミラージュは、まるで「今日の買い出しが終わりました」とでも言うような、極めて平坦で涼しい顔をして報告を終えた。
「…………」
報告を聞いたレオンハルトも、ザイードも、ガストンでさえも、開いた口が塞がらずに言葉を失っていた。
たった一人の人間が、わずか数日の間に、剣を一振りも抜くことなく、大陸の勢力図を完全に書き換えてしまったのだ。
「……ははっ。はははははっ! すげえ! すげえよミラージュ、お前は本当に化け物だな!」
沈黙を破り、シンが腹を抱えて大爆笑した。
「完璧すぎる。これで俺たちは、外の煩わしい連中を一切気にすることなく、迷宮の拡大にフルコミットできるってわけだ!」
「恐縮です、マスター。貴方からいただいた資金と、セレン殿たちの証言があったからこその成果に過ぎません」
ミラージュは淡々と一礼した。
「よし! 外の掃除が終わったなら、俺たちは予定通り『禁書塔の変人学者』の釣り上げに向かうぞ! 俺たちの国を、大陸の連中がひっくり返っても追いつけない次元まで引き上げてやる!」
千の顔を持つ情報屋の恐るべき暗躍により、愚かなる外敵たちは音もなく自滅し、完全に盤上から取り除かれた。
いよいよ誰にも邪魔されることのない「真の黄金期」を迎えたシンの迷宮は、次なる頭脳を求め、北の魔境へと意気揚々と足を踏み出すのであった。




