第57話:静寂の森の散歩と、歩く古代樹
第57話:静寂の森の散歩と、歩く古代樹
魔導帝国ゼノスの辺境に位置する『静寂の森』。
かつては大精霊の加護を受け、豊かな魔力を湛えていたその森は、帝国の魔導機械を動かすための無軌道な伐採により、今や見る影もなく荒れ果てていた。切り株が墓標のように並び、大地の魔力は枯渇しかかっている。
「……ひどい有様です。森の精霊たちが、痛みに泣いています」
同行していたエルフの使節長リリアが、荒涼とした風景に顔を顰めた。
「ああ。急いで標的を保護しよう。テト、匂いは追えるか?」
「キュイッ!」
白兎のテトが鼻をヒクヒクとさせ、迷いなく森の奥へと跳ねていく。シンとリリアはその後を追い、帝国の領地を堂々と進んでいった。
敵国の領土深くへの潜入。本来であれば、厳重な結界や精鋭の魔導兵による哨戒網を潜り抜けなければならない、命懸けのミッションである。
——だが、拍子抜けするほどに、帝国の警備は「ザル」であった。
「……おい、あそこの見張り。立ったまま居眠りしてるぞ」
「ええ……。結界の魔力装置も、魔石の交換がされておらず完全に機能停止していますわ」
それもそのはずである。帝国軍が誇る精鋭部隊の多くは、先日の『断砕の斧迷宮』への強行突入と泥沼の消耗戦によって、その七割が帰らぬ人となっていたのだ。
生き残ったわずかな将兵も帝都の防衛に回され、こんな辺境の森の警備に立たされているのは、ろくに訓練も受けていない新兵や、戦意を喪失した負傷兵ばかりであった。
「まあ、こっちとしては手間が省けて助かるがな」
シンは居眠りする新兵たちの横を、文字通り「散歩のような足取り」で通り抜け、森の最奥へと到達した。
***
そこには、周囲の切り株とは比較にならないほど巨大な、一本の「大樹」がそびえ立っていた。
それが、今回のスカウトの標的である古代の魔物——『豊穣の樹人』であった。
しかし、その姿はあまりにも痛ましかった。幹には斧や魔法でつけられた無数の傷跡が刻まれ、かつて森を覆い尽くしていたはずの豊かな葉はほとんど枯れ落ちている。
周囲の地脈の魔力を根こそぎ帝国に吸い上げられ、大樹自身も魔力不足で餓死寸前の状態に陥っていたのだ。
「……人間、か……。もう、私から搾り取る魔力は……残っておらんぞ……」
大樹の幹に浮かび上がった老人のような顔が、シンたちを見て、力なくカサカサと葉を鳴らした。その声には、怒りすら湧かないほどの深い諦観が滲んでいた。
「俺は帝国の人間じゃない。西の森にある『深緑の無名奈落』っていう迷宮のマスターだ」
シンはそう言うと、アイテムボックスから一本のガラス瓶を取り出した。
「あんたの『豊かな土壌を作る能力』をスカウトしに来た。……とりあえず、これを飲んでくれ」
シンが瓶の蓋を開け、大樹の乾ききった根元にその液体を注ぎ込んだ。
それは出発前、水精の歌姫アクアから預かってきた『新・第6層の極上浄化水(魔力純度100%)』であった。
ジュワァァァッ……!
液体が土に染み込んだ瞬間、エルダー・トレントの巨大な幹がビクンッと跳ねた。
「おお……!? おおおおおッ!?」
枯れ木のような枝の先から、ポンッ、ポンッ! と凄まじい勢いで新緑の葉が芽吹き、瞬く間に大樹の半分が青々とした生命力に包まれたのだ。
「な、なんという芳醇で清らかな水だ! 私の根の隅々にまで、星の産声のような魔力が染み渡っていく……! お主、この水を一体どこから……!?」
「俺の迷宮の、新しい『水インフラ(地下湖)』からだよ」
シンは驚愕する古代樹を見上げ、ニヤリと営業スマイルを浮かべた。
「俺の迷宮に来れば、この極上の水が毎日飲み放題だ。土壌も最高の魔力を含んだものを俺のDPで用意するし、斧を持った人間は絶対に近づけさせない。……どうだ? うちの農業の長として、一肌脱いでくれないか?」
「……迷宮の、マスターよ。私は長き時を生き、人間に裏切られ続けてきたが……お主の瞳と、この水からは、微塵の嘘も感じられん」
エルダー・トレントは、幹の顔に深いシワを寄せて温かく微笑んだ。
「よかろう! この老いぼれの命と土の叡智、お主の迷宮の礎として捧げようではないか!」
「交渉成立だ。それじゃあ、さっそくお引越しと行こうか。……テト、転送魔法陣の準備を——」
シンが転送の準備をしようとした、その時である。
「いや、マスター殿。転送などという魔力の無駄遣いは必要ない」
「え?」
ズゴゴゴゴォォォォォッ!!
突如、大地が激しく揺れ、エルダー・トレントの周囲の地面が大きく隆起した。
シンとリリアがポカンと見上げる中、なんと巨大な大樹は、地中深くに張っていた「極太の根っこ」を自らスポーン! と引っこ抜いたのだ。
「よっこいしょ、と……。ふぅ、百年ぶりに根を抜いたわい。あの水をいただいたおかげで、身体が羽のように軽いぞ!」
エルダー・トレントは、二本の太い根っこを「足」のように器用に動かし、ズシン、ズシンと足踏みをして見せた。
「さあ、マスター殿! 新居へ向けて出発しようではないか! はっはっは!」
「……ええと。歩いて帰る気なのか?」
「うむ! 天気が良いからな、たまには散歩も一興よ!」
そうして、前代未聞の「歩く巨大樹の引越し」が始まった。
ズシン! ズシン! と大地を揺らしながら、エルダー・トレントはシンの後について森をズンズンと歩いていく。その巨体と凄まじい地響きは、当然ながら帝国の警備兵たちにもすぐに発見された。
「ひ、ひぃぃぃっ!? も、森が……大樹が歩いているぞォォッ!?」
「ば、馬鹿な! 攻撃しろ! 魔法を撃て!」
慌てふためく新兵たちが、震える手で炎の魔法を放つ。
しかし、アクアの魔力水でコーティングされた大樹の樹皮に炎が当たっても、「ジュッ」と小さな音を立てて鎮火するだけで、焦げ跡一つ付かなかった。
「はっはっは! そよ風のような魔法じゃな! さらばだ、人間の若者たちよ!」
「化け物だァァッ! 逃げろォォォッ!」
圧倒的な質量と生命力を前に、戦意のない帝国兵たちは武器を放り出して我先にと逃げ出していった。
シンの護衛であるリリアが弓を構える隙すらなく、帝国軍の哨戒網は、歩く大樹の「ただの散歩道」として呆気なく蹂躙されてしまったのだ。
「……まあ、目立つけど、魔力(DP)の節約になるからいっか」
逃げ惑う帝国兵たちを横目に、シンは苦笑しながら肩をすくめた。
かつて死闘を演じた帝国の森を、鼻歌交じりの散歩感覚で通り抜ける迷宮の主と、陽気な古代樹。
シンの圧倒的な内政力と「福利厚生」は、どんな頑固な古代の魔物をも即座に魅了し、彼の迷宮を真の意味で「大陸最強の楽園」へと押し上げていくのであった。




