第53話:蒼き地底湖と、雪山の置き土産
第53話:蒼き地底湖と、雪山の置き土産
時計の針を、霊峰ガルドンの頂で『雷雲の霊鳥』が救済される数日前に戻そう——。
東の古代湖で水精の歌姫アクアと契約を結んだシンは、彼女とその一族(数十体のウンディーネたち)を伴い、即座に『深緑の無名奈落』へと帰還していた。
目的はただ一つ。先日のダンジョン侵攻で獲得した「階層拡張権限」を行使し、彼女たちのための新たな階層を創り出すことである。
「さあ、ルリ。DPを惜しみなく使え。ここに世界で一番美しく、清らかな水の都を創るぞ」
迷宮の深部。巨大な岩盤に覆われた空間でシンが号令をかけると、ダンジョンコアのルリが眩い蒼光を放った。
ズゴゴゴォォ……! という地鳴りと共に、岩盤が丸くえぐり取られ、果てしなく広大な「ドーム状の空間」が形成されていく。天井には星空のように輝く発光苔が群生し、空間の中央には、迷宮の魔力によって生み出された『純度100%の魔力水』が滝のように降り注ぎ、巨大な地底湖を満たしていった。
「これより、ここが新『第6層』……『蒼き水精の湖畔』だ。迷宮内のすべての水脈はここに繋がり、浄化されて循環する」
「あ、ああ……なんという美しさ。なんという魔力の清らかさでしょう……!」
新設された地底湖を前に、アクアは両手を組んで感極まったように震えていた。
人間の欲望や、地脈の枯渇といった外的要因に一切脅かされることのない、絶対安全な地下のオアシス。それは、環境の変化に敏感な水精霊たちにとって、まさに夢にまで見た理想郷であった。
「アクア。約束通り、ここの水質管理と迷宮全体の浄化はあんたたちに任せる」
「はい、マスター・シン! この美しき水は、我らウンディーネ一族が永遠に守り抜いてみせましょう!」
こうして迷宮の水インフラを完璧なものとしたシンは、休む間もなく、アクアとテトを連れて南の『霊峰ガルドン』へと向かった。
そして——傷つき、同胞の命を案じて涙を流していた『雷雲の霊鳥』の長を、間一髪のところで浄化し、救い出したのである。
***
「——というわけで、俺の迷宮に来ないか」
霊峰の頂。胸の呪毒を完全に浄化され、痛みが消え去った霊鳥の長は、目の前の青年の提案に、呆然と瞬きを繰り返していた。
「ピィ……? 迷宮の、中にですか……? ですが、我々は空を舞う一族。地下の狭い洞窟では、この子たちも満足に羽ばたくことができません……」
「心配すんな。俺の迷宮の『拡張権限』はまだ余ってる」
シンは屈託なく笑い、霊鳥の長とその足元で震える雛たちを見渡した。
「新しい階層を、天井が見えないくらい広大な『青空の階層』にしてやる。天候操作の権限で、お前らが好きな雷雲も嵐も作り放題だ。何より……人間の猟師や魔導師は、絶対にその空には届かない」
「人間が、届かない空……!」
「ああ。そこで雛たちを立派に育て上げてくれ。その代わり、迷宮がピンチになった時は、上空からの強力な雷撃で力を貸してほしい」
絶対的な安全と、広大な空。そして何より、自分たちを「利用する」のではなく「対等な仲間」として迎え入れようとするシンの器の大きさに、霊鳥の長は深く、深く頭を垂れた。
「……大いなる空の精霊に代わり、貴方様の慈悲に感謝いたします。我ら霊鳥の一族、貴方様が創り出す『新たな空』の守護者となることを、ここに誓いましょう!」
こうして、伝説の霊鳥を新たな戦力(および迷宮の空の管理者)としてスカウトすることに成功したシンは、巨大な転送魔法陣を展開して彼女たちを迷宮へと送り返した。
***
「ふぅ。これで水と空の環境はバッチリだな。帰って階層増設の続きだ」
大仕事を終え、シンはアクアとテトと共に、猛吹雪の吹き荒れる霊峰を歩いて下山していた。
その途中である。
「キュウッ! キュイッ!」
シンの肩に乗っていたテトが、猛吹雪の向こう側を指差して鋭く鳴いた。
「ん? どうしたテト。人間の討伐隊でも登ってきたか?」
シンが『気配察知』を広げると、岩陰の奥に、複数の小さな生命反応があることに気がついた。
近づいてみると、そこにいたのは雪と同化するような純白の毛並みを持つ、十数匹の羊のような魔物たちだった。
「マスター。あれは……『幻雪の白羊』ですわ!」
アクアが驚いたように声を上げる。
「スノー・フリース?」
「はい。彼らの毛は、吹雪を防ぎ、高度な魔法耐性を持つ『極上の魔法防具』の素材になります。……しかし、その毛を狙う人間たちによって乱獲され、百年ほど前に絶滅したとばかり思っていましたが……」
「メェェ……」
岩陰に身を寄せる白羊たちは、ひどく怯え、震えていた。
よく見ると、群れの親玉らしき一回り大きな白羊の足に、人間が仕掛けたトラバサミ(鉄の罠)が深く食い込んでいる。どうやら、霊鳥を狙って山に入ってきた人間の密猟者たちが、偶然彼らを見つけて罠を仕掛けたらしい。
「絶滅危惧種が、こんな過酷な雪山で人間に怯えながら隠れ住んでたってわけか。……おい、お前ら」
シンはゆっくりと近づき、親玉の足に食い込んだトラバサミを素手で軽々と引きちぎった。さらに、アイテムボックスから新鮮な干し草と、魔力を込めた温かいスープを取り出して彼らの前に置いた。
「怪我はエルフのポーションで治してやる。……お前らも、俺の迷宮に来るか? 猛吹雪も、お前らを狩ろうとする人間もいない、温かくて安全な牧場を作ってやる」
「メ、メェェッ!?」
極上の食事と、シンの優しい魔力に触れた白羊たちは、目を輝かせてシンの足元にすり寄ってきた。
彼らもまた、過酷な自然と人間の脅威に限界を迎えていたのだ。安全な牧場と食事という「圧倒的な福利厚生」の前に、彼らが首を縦に振らない理由はなかった。
「よし、交渉成立だ。お前らの毛は定期的に刈らせてもらうが、その分大事に飼ってやるからな。……これで、都市の住人たちに極上の防寒着と魔法防具を配ってやれるぞ!」
霊鳥のスカウトという大目的を果たした上に、下山中に出会った絶滅危惧種までちゃっかりと「迷宮の繊維産業の要」としてスカウトしてしまったシン。
あらゆる機会を見逃さず、迷宮の豊かさを底上げしていく彼の手腕により、『深緑の無名奈落』はもはやダンジョンという枠を越え、地上よりも遥かに豊かで安全な『完全なる異世界国家』へと、確実な歩みを進めているのであった。




