第51話:水精の歌姫と、古代湖の盟約
第51話:水精の歌姫と、古代湖の盟約
大深緑の迷い森から東へ数日。
道なき獣道を抜け、切り立った峡谷を越えた先に、その巨大な湖はひっそりと水を湛えていた。
『東の古代湖』。
テラ・マグナの大陸が形成された太古の昔から存在するとされるその湖は、鏡のように空を映し出し、神秘的な静寂に包まれていた。
「……ここが、ヴィクトリアが言っていた古代湖か。確かに魔力は濃いが、少し水が淀んでいるな」
湖畔に立ったシンは、足元の水に手を浸して呟いた。
「キュイッ。キュウッ」
同行していた白兎のテトが、長い耳を揺らして湖の中心を指差す。そこから、微かだが、どこか悲しげで美しい「歌声」が響いてきたのだ。
——ラァ……アァ……。
その歌声に呼応するように、湖面の水がふわりと盛り上がり、やがて一人の美しい女性の姿を形作った。
透き通るような青い髪、水滴を編み込んだようなドレス、そして湖の深淵を思わせる神秘的な瞳。彼女こそ、あらゆる水を浄化し操る最位の水精霊、『水精の歌姫』であった。
「……人間。なぜこのような辺境の湖に足を踏み入れたのですか」
歌姫の声は美しかったが、その響きには絶対零度のような冷たい拒絶と、明確な敵意が込められていた。
「我ら水精霊は、人間の強欲さをよく知っています。過去に幾度も、我々の浄化の力を私物化しようと、愚かな魔導師や王族が網を張りに来ました。……貴方も、力ずくで私を捕らえに来たのでしょう?」
歌姫が細い腕を振るうと、湖の水が巨大な水竜の形をとり、シンの頭上に覆い被さった。
一触即発の事態。だが、シンは全く動じることなく、両手を軽く上げて敵意がないことを示した。
「落ち着いてくれ。俺は人間の国から来たわけじゃない。西の森にある迷宮、『深緑の無名奈落』のマスターだ」
「迷宮の、マスター……? 人間でありながら、ダンジョンコアの主だと?」
「ああ。俺は今日、あんたを力ずくで捕らえに来たわけじゃない。対等な『交渉』をしに来たんだ」
シンは湖をぐるりと見渡した。
「さっき歌声を聞いて確信した。あんた、この湖の『淀み』を必死に浄化しようとしてるだろ? でも、周辺の地脈の魔力が弱まっていて、あんた一人の力じゃ追いつかなくなりつつある」
「……ッ。それは……」
図星を突かれ、歌姫はハッと息を呑んだ。
「俺の迷宮は今、急速に拡大していてね。新しい階層に、巨大な『地底湖』と豊かな水脈を作りたいんだが、それを完璧に管理できる人材がいなくて困っている。……どうだ? 俺の迷宮に来ないか」
シンは真っ直ぐに歌姫の瞳を見据え、迷宮の主としての「最大の切り札」を提示した。
「俺の迷宮の地下には、地上の気候変動にも人間の強欲さにも絶対に侵されない、完璧に安全な空間がある。あんたたちが望むだけの広大な地底湖を、俺の魔力(DP)で新しく作ってやる。水質は常に最高級の魔力で満たすと約束しよう」
「……私に、その地下湖を与えると? 見返りに何を求めるのですか」
「迷宮中の水回りの管理と、住人たちのための最高のオアシスの維持だ。あとは、気が向いた時にその綺麗な歌声を聴かせてくれればいい」
シンはそう言うと、自身の胸元からダンジョンコアであるルリの分体を少しだけ顕現させ、その純粋無垢な魔力の光を歌姫へ向けた。
その光を浴びた瞬間、歌姫の警戒に満ちていた瞳が、驚きに見開かれた。
「……なんて、純粋で澄み切った魔力。血の匂いも、強欲な支配欲も、微塵も感じられない。これが、貴方の迷宮の魔力なのですか……?」
「ああ。俺の国の住人たちは、種族を問わず皆笑って暮らしてる。あんたの一族も、絶対に後悔はさせない」
歌姫はしばらくシンの顔と魔力の光を交互に見つめていたが、やがて水竜を湖面に溶かし、ふわりとシンの目の前まで降り立った。
「……私の名前はアクア。……シンと言いましたね。貴方のその偽りのない魔力の輝きに免じて、一度だけ信じてみましょう。私たち一族に、安息の地を与えてくださるのなら、貴方の迷宮を世界で最も清らかな水で満たしてご覧に入れます」
「契約成立だな、アクア。よろしく頼む」
シンが差し出した手を、アクアが冷たくも心地よい水の手でそっと握り返す。こうして、迷宮の環境維持においてこれ以上ない最強の存在が、陣営に加わったのであった。
交渉が成立し、和やかな空気が流れる中、シンはふと気になっていたことを口にした。
「なあ、アクア。あんたは太古の昔からこの大陸を見ているんだろ? 俺の迷宮はこれからまだまだ大きくなる。……もし、あんたたちみたいに人間に追われたり、環境の変化で苦しんだりしている『助けたい古代の魔物』がいるなら、俺が保護して迷宮に引き入れたいんだ。心当たりはないか?」
単なる戦力増強ではなく、「助けたい」というシンの優しい言葉に、アクアは嬉しそうに微笑んだ。
「……貴方という人は、本当に不思議な人間ですね。迷宮の主でありながら、まるで大精霊のように慈悲深い」
アクアは少し考えるように視線を落とし、やがて、ある『伝説の存在』の名を口にした。
「……一つだけ、心当たりがあります。ここから遥か南、一年中雲に覆われた『霊峰ガルドン』の頂に、太古から空を舞う巨大な鳥……『雷雲の霊鳥』が巣を作っています」
「サンダーバード……雷を操る伝説の魔物か」
「はい。ですが、彼女は数百年前に人間に卵を狙われてひどい傷を負い、それ以来、雷雲の結界に引き籠って一切下界に降りてきません。最近では魔力の衰えから、その結界すら維持できなくなりつつあると風の精霊から聞きました。……貴方の迷宮の広大な空と純粋な魔力があれば、あるいは彼女を癒すことができるかもしれません」
「霊峰の頂で傷ついた伝説の鳥、か。……決まりだな」
シンは空を見上げ、ニヤリと笑った。
「テト、帰ったら急いで地下湖の準備だ。アクアの一族を無事に移住させたら、休む暇もなく次の遠征に行くぞ。……狙うは霊峰の頂だ!」
水精の歌姫を仲間に引き入れ、迷宮内の完璧な水質管理とオアシス建設の目処を立てたシン。
彼の飽くなき探求心と救済の矛先は、いよいよ伝説の霊鳥が眠る高い空へと向けられた。迷宮の拡張という底なしの野望は、とどまるところを知らずに加速していくのであった。




