第36話(閑話):偽装都市と、老獪なる先駆者の怒り
第36話(閑話):偽装都市と、老獪なる先駆者の怒り
大深緑の迷い森から遥か南東。魔導帝国ゼノスの国境にもほど近い荒野の片隅に、一つの美しい小国が存在した。
『城塞都市アインガルド』。
高い防壁と豊かな湧き水に恵まれ、数万の人間たちが平穏に暮らすその独立国家は、大国の争いに関与せず、中立を保つことで数十年にわたり平和な運営を続けてきた。
……表向きは。
住民たちは誰も知らない。自分たちが毎日歩く石畳が、触れる建物の壁が、すべて「生きた迷宮の一部」であることに。
人間たちが日々の労働や生活で発する微量な魔力や熱量、あるいは生老病死のエネルギー。それらはすべて、都市の地下深くに張り巡らされた魔力回路(ダンジョンの血管)を通じて、静かに、しかし確実に『吸い上げられて』いた。
アインガルドの地表の都市は、この迷宮における『第1層』に過ぎない。人間という名の家畜を放し飼いにし、生かさず殺さずDPを搾取し続けるための、完璧な偽装牧場なのだ。
***
そして、その地下深く。光の届かない第3層・玉座の間。
漆黒の豪奢な椅子に深く腰掛けていたのは、青白い肌と真紅の瞳を持つ、吸血鬼のダンジョンマスター・アーランドであった。
「……何だと? もう一度言ってみろ、ファントム」
アーランドは、台座に浮かぶ真紅のダンジョンコアから視線を外し、床に片膝をつく黒い影――諜報長であるドッペルゲンガーの魔人に向かって、低い、底冷えのする声を絞り出した。
「はっ。北西の『大深緑の迷い森』に誕生した新興の迷宮が、聖王国の聖騎士団と魔導帝国の先遣隊を立て続けに壊滅させました。さらに、獣人連邦十万の大軍を無傷で捕縛して同盟国とし、商業共和国ヴァロワの政変を裏で操り、自らを『大迷宮国家』と称しているとのことです」
パキッ……。
アーランドの手の中で、ワインを満たした純金製のゴブレットが、ひしゃげる音を立てた。
「……期間は? その迷宮が産声を上げてから、どれほどの時が経っている」
「正確には不明ですが……せいぜい、数ヶ月から半年といったところかと。総人口はすでに千を超え、莫大なDPを保有していると推測されます」
「ふざけるなァァァッ!!」
アーランドが咆哮した瞬間、膨大な殺気が玉座の間に吹き荒れ、傍らに控えていたアンデッドの側近たちが恐怖に震え上がった。
「たかだか半年だと!? この私が、このアインガルドを築き上げるのにどれほどの時間を要したと思っている! 魔導帝国の忌まわしい観測網から身を隠し、人間に疑われぬよう少しずつ、少しずつ壁を拡張し、数十年という途方もない時間をかけて、ようやくこの『3階層』の安定した偽装国家を作り上げたのだぞ!」
アーランドの胸中を支配しているのは、純粋な『嫉妬』と、強烈な『危機感』だった。
ダンジョンマスターにとって、人間の大国家は恐ろしい敵だ。かつて多くの同業者が、力を過信して暴れ回り、人間たちにコアを破壊(あるいは回収)されて消えていった。だからこそ、アーランドは息を潜め、臆病なほど慎重に、知略を巡らせて生きてきた。
「あの馬鹿騒ぎのせいで、ゼノスの魔導師どもが再び『ダンジョンコアの莫大な価値』を思い出したではないか! あんな目立つ真似をすれば、人間どもが血眼になって世界中の迷宮を狩り尽くそうとする! 新参者の愚行のせいで、私の数十年の隠密工作が水の泡になりかねんのだぞ!」
アーランドは血走った目で立ち上がり、苛立ちのままにひしゃげたゴブレットを壁に投げつけた。
「我が主よ、お怒りはごもっともです」
闇の中から進み出たのは、白骨の体にローブを纏った影の宰相だった。
「あの新参者……『深緑の無名奈落』とやらは、ダンジョンの掟を知らぬ赤子のようなもの。魔物だけでなく人間やエルフまで同列に扱い、和気藹々(わきあいあい)と生活させているという、反吐が出るような偽善の迷宮だそうです。我々のような、恐怖と死による絶対支配とは根本から相容れません」
「……ならば、教えねばなるまいな」
アーランドは真紅の瞳を細め、老獪な冷笑を浮かべた。
「あの新参者は、力押しで来る人間の軍隊のあしらい方は知っているようだが……『同業者』の恐ろしさは知るまい。ダンジョンとは、力ではなく陰湿な罠と呪い、そして他者のリソースを奪い合う毒虫の壺だ」
アーランドは玉座に座り直し、幹部たちを見下ろした。
「ファントム。お前の部下どもを、人間の難民や冒険者に偽装させ、『深緑の無名奈落』へ潜入させろ。あそこは来る者をご丁寧に受け入れる甘い国なのだろう? 内部から毒を盛り、結界の要石を破壊し、疑心暗鬼の種を蒔け」
「御意。内側から腐らせてご覧に入れます」
「そして……頃合いを見て、私が直接あの迷宮の『コア』を喰らってやる。生意気な新参者の莫大なDPを吸収すれば、このアインガルドは帝国すら凌駕する真の暗黒国家となろう」
静寂の小国・アインガルドの地下で、先輩マスターによる恐るべき『同業者潰し』の謀略が動き始めた。
剣や魔法の軍隊ではなく、偽装と暗殺、そしてダンジョンのルールを知り尽くした者による陰湿な攻撃。それは、破竹の勢いで拡大を続けてきたシンの迷宮にとって、これまでで最も厄介で致命的な試練となろうとしていた。




