第33話(閑話):白熊のけじめと、安息の迷宮
第33話(閑話):白熊のけじめと、安息の迷宮
獣人連邦ガルドの首都、元老院議事堂。
十万の軍勢が「一滴の血も流すことなく」無傷で帰還したという前代未聞の報告は、連邦中に驚きと安堵をもたらしていた。
誰もいない静かな議事堂の中心で、大将軍ガランは、元老院議長である白熊の長老に対し、大深緑の迷い森で起きた出来事のすべてを報告し終えた。
「――以上が、迷宮の主が見せた圧倒的な慈悲と、ボルグの裏切りの顛末にございます。……長老。貴方様が密かにクロウを遣わしてくださらねば、我らは間違いなく、大義なき戦いで誇りを失い、あの『不殺の罠』ではなく、本物の致死の罠によって全滅していたでしょう」
ガランは深く頭を垂れた。
しかし、玉座に座る白熊の長老は、静かに首を横に振った。
「いや、ガランよ。頭を下げるべきは私の方だ。……私はボルグの言葉に疑念を抱きながらも、お前たち同胞を想う『純粋な怒り』に気圧され、大侵攻に賛同してしまった。老い先短い身とはいえ、あの熱狂を止めるだけの度量が、私には足りていなかったのだ」
「長老……! それは違います。悪いのは騙したボルグであり、己の血の気を御しきれなかった私です!」
「よいのだ、ガラン」
長老は穏やかに微笑み、ゆっくりと立ち上がった。
「連邦のトップとして、一度振り上げた十万の拳。一人の血も流れなかったからといって、無かったことにはできない。……私は元老院議長の座を退く。そして、これを『最後の仕事』としたい」
長老は懐から一通の羊皮紙を取り出した。
「迷宮の主、シン殿へ親書を送る。……私を、かの迷宮へ『移住』させてほしい、とな」
「なっ……!? 長老自らが、迷宮へ下るというのですか!?」
驚愕するガランに、長老の背後に控えていた黒豹の斥候クロウが、悲痛な声で補足した。
「ガラン将軍。長老様は、自らが『人質』として迷宮に赴くことで、迷宮側に対する最大限の謝罪と、今後の不可侵の盟約の『絶対の保証』にしようとされているのです。……どれだけ止めても、聞き入れてくださらない」
「そうだ。これは獣人のトップとしての、私の『けじめ』だ。……ガラン、後の連邦はお前たち若い世代に託すぞ」
長老の決意に満ちた瞳を見て、ガランはギリッと唇を噛み締め、やがて渋々ながらも深く頷いた。
「……承知、いたしました。このガラン、長老の気高き覚悟を無駄にはいたしません」
「クロウよ、お前は連邦に残り、ガランを支えてやってくれ」
「お断りいたします」
即答したクロウは、長老の足元に片膝をついた。
「私は長老様の子飼い。貴方様がどこへ行こうと、最期までお供し、お護りするのが私の『誇り』です。どうか、私めも迷宮へ連れて行ってください」
「……お前も、強情な奴だな」
長老は困ったように笑い、クロウの頭を優しく撫でた。
***
『――というわけで、責任を取って議長を辞任し、謝罪と人質を兼ねて、私と部下の一名を迷宮の片隅に住まわせてはいただけないだろうか』
迷宮第4層、マスターズ・チェンバー。
ガストンが読み上げた白熊の長老からの親書の内容に、幹部たちは顔を見合わせた。
「連邦のトップが自ら人質としてやってくる、か。獣人らしい、不器用なほど真っ直ぐな誠意だな」
レオンハルトが感心したように腕を組む。
「しかしマスター。受け入れるとなれば、獣人連邦との政治的繋がりがより強固になりますが、同時に彼を狙う過激派などが現れる可能性も……」
実務家であるガストンが懸念を口にしたが、シンは全く気にした様子もなく、あっけらかんと笑った。
「難しく考える必要はないさ。長年国を背負って疲れたお爺ちゃんが、空気のいい田舎に隠居したいって言ってるだけだろ? 大歓迎だ」
シンはルリに向かって指を鳴らした。
「ルリ、第4層の居住区の奥、少し静かなエリアに『和風の隠居屋敷』をDPで建築してくれ。縁側があって、日向ぼっこができるようなやつだ。あと、近くに温泉も引いておいてくれ」
『了解です、マスター! 最高級の湯治場セットをご用意しますね!』
「さあ、お爺ちゃんと忠義の部下を迎え入れる準備だ。ログに言って、とびきり美味い魚料理を用意させておけ」
政治的思惑などどこ吹く風。
シンの迷宮は、いついかなる時も「頼ってくる者」に対して最高のおもてなしをする準備に満ちていた。
***
数日後。
迷宮第4層に降り立った白熊の長老とクロウは、目の前に広がる光景に言葉を失っていた。
「これが……迷宮の底、なのか? まるで、大精霊の愛した楽園ではないか……」
輝く天井、豊かな農地、笑い合う多種族。
そして案内された居住区の奥には、長老のために用意されたという、立派な木造の屋敷と、湯気を立てる岩風呂(温泉)があった。
「遠路はるばるご苦労だったな、長老さん。俺がマスターのシンだ」
屋敷の縁側に腰掛けていたシンが、笑顔で立ち上がった。
長老は慌てて姿勢を正し、深く頭を下げようとした。
「シン殿……。この度は我らの愚行を……」
「謝罪や、人質としての堅苦しい挨拶はなしだ。今日からここは、あんたの新しい家なんだからな」
シンは長老の言葉を遮り、縁側に用意されていた温かいお茶と、ログ特製の『白身魚のふっくら塩焼き』を勧めた。
「国を背負う重圧は、もうガラン将軍に預けてきたんだろ? ここでは、ただのんびり、美味しいものを食べて、温泉に浸かって、余生を楽しんでくれればいい。……クロウも、ずっと気を張ってないで一緒に食え」
「なっ……私にまで、このような極上の食事を……?」
クロウが戸惑う中、長老は手渡されたお茶を一口飲み、その温かさと香りに、思わずポロリと一筋の涙をこぼした。
「……おお。なんて……なんて優しい味なのだ」
ずっと張り詰めていた「責任」という名の糸が、シンの温かな言葉と空間によって、ゆっくりと解けていくのを感じた。
「シン殿。貴方様は本当に、森よりも深く、空よりも広い器を持たれた御方だ。……ありがとう。この老いぼれ、残りの命はすべて、この美しき迷宮のために捧げさせていただこう」
長老の心からの感謝の言葉に、シンは照れくさそうに笑った。
武力で敵を退け、知略で国を崩し、そして今、慈愛によって一国の歴史ある賢者をも惹きつけた。
迷宮国家『深緑の無名奈落』は、強さだけでなく、誰もが憧れる『真の安息の地』としての完成度を、また一つ高めたのであった。




