第32話:不殺の奈落と、真実の咆哮
第32話:不殺の奈落と、真実の咆哮
地響きが、大深緑の迷い森を揺らしていた。
南から押し寄せた獣王軍十万。各部族の猛者たちで構成されたその大軍は、虎の獣人である大将軍ガランの号令のもと、怒濤の勢いで『深緑の無名奈落』の巨大な入り口へと雪崩れ込んでいった。
「進めェェッ! 卑劣な魔物の罠など、我らの誇りと力で踏み砕け!!」
ガランが先頭に立って咆哮する。その後方では、特命全権大使ボルグが安全な位置から狡猾な笑みを浮かべていた。
獣王軍の士気は最高潮だ。彼らは武器を振り上げ、殺意を剥き出しにして暗闇の坂道を駆け下りていく。
――しかし、彼らは数秒後に違和感に気づいた。
「……ん? なんだ、足元が異様に滑るぞ!?」
「う、うおおおっ!? 止まらんッ!」
迷宮の工兵長カルクが徹夜で改修した第1層。それは、致死トラップをすべて取り払った「巨大なすり鉢状の超摩擦ゼロ滑り台」だった。
十万の軍勢は、抵抗する間もなく凄まじい速度でツルツルと滑り落ちていく。剣を床に突き立てようにも、石畳は強固で傷一つ付かない。
「な、なんだこの情けない罠はァァッ!」
「前がつかえてるぞ! ぶつかる、ぶつかるゥ!」
ドゴォォォンッ!
滑り落ちた彼らを待ち受けていたのは、巨大な落とし穴の底に敷き詰められた、何百匹もの巨大スライムによる「極上のふかふかクッション」だった。
十万の獣人たちは、一切の怪我をすることなく、ただスライムの弾力でボヨンボヨンと弾ね回り、巨大な空間の底で密集状態に陥った。
「ええい、体勢を立て直せ!」
ガランが叫んだその瞬間。
今度は彼らの頭上の暗闇から、アラクネの女王セリアが率いる蜘蛛の魔物たちが、大量の白い「粘糸」を雨のように降らせた。
「な、何だこの糸は! ちぎれん!」
「力が入らな……い……」
致死毒の代わりに強力な『麻痺毒』を含んだその糸は、密集して身動きの取れない獣人たちを次々と絡め取り、あっという間に「十万個の白い簀巻き」の山を作り上げてしまった。
突入からわずか十数分。
剣を一度も振るわせず、一滴の血も流させることなく、シンの迷宮は十万の大軍を完全に『無力化』したのである。
***
「……くそっ、体が動かん。卑劣な真似を……」
麻痺糸で雁字搦めにされたガランが、床に転がったままギリッと牙を鳴らす。周囲には同じように簀巻きにされた部下たちと、顔を真っ青にして震えるボルグの姿があった。
「ようこそ、大深緑の迷い森へ。……随分と威勢が良かったが、少し頭は冷えたか?」
不意に、虚空から声が響いた。
ガランたちが視線を向けると、巨大空間の前方に設えられたバルコニーに、人間の青年――迷宮の主であるシンと、その幹部たちが姿を現した。
「貴様が迷宮の主か! 我らを捕らえ、誇りを泥で塗るつもりか!」
「誇りに泥を塗っているのは、お前たちの身内だろ」
シンが指を鳴らすと、幻惑狐キュウビが術を展開した。
何もない空中に、数十メートル四方の「超特大の幻影スクリーン」が浮かび上がり、そこにある映像が映し出された。
『我らは寛大だ。今すぐ同胞たちをすべて引き渡し、迷惑料としてこの迷宮が持つ魔力資源の三割を連邦へ割譲するならば……』
『交渉は……決裂だ! 我らの誇りを金と紙切れで愚弄したこと、必ず後悔させてやるぞ……!』
それは、先日行われたボルグとの外交交渉の完全な録画映像だった。
ボルグが不当な難癖をつけ、シンの前に「奴隷市場との裏取引の証拠」を突きつけられて逆ギレし、逃げ帰るまでの全てが、十万の獣王軍の前で赤裸々に大音量で上映されたのだ。
「な、なんだと……?」
ガランの目が見開かれる。
さらに、シンの傍らから一人の獣人が身を乗り出した。黒豹の斥候クロウだ。
「ガラン将軍! そして同胞たちよ! 我々はすべて、このボルグという薄汚い裏切り者に騙されていたのです! 迷宮にいる同胞たちは洗脳などされておらず、長老はそれを怪しんで私を調査に遣わしてくださいました!」
「クロウ……! 白熊の長老の直属たるお前が、そういうのならば……」
ガランをはじめ、簀巻きにされた十万の獣人たちの視線が一斉に、ボルグへと集中した。
「ひぃっ!? ち、違う! これは魔物が見せている幻術だ! 騙されるなァッ!」
ボルグは必死に取り繕い、体を芋虫のように捩って逃げようとしたが、すぐ隣に転がっていたガランが、麻痺した体から無理やり黄金の闘気を爆発させ、糸を強引に引きちぎって立ち上がった。
「……ボルグゥゥッ!!」
ガランの巨大な拳が、ボルグの顔面に深々とめり込む。
「がはぁッ!?」
凄まじい一撃に、ボルグは白目を剥いて壁まで吹き飛び、そのままピクピクと痙攣して気絶した。自業自得、完全なる自滅であった。
静まり返った巨大空間。
ガランは荒い息を吐きながら、バルコニーに立つシンを見上げた。そして、ズンッと重い音を立ててその場に片膝をつき、深く、深く頭を下げた。
「……迷宮の主、シン殿。我ら獣王軍は、一人の愚か者の虚言に踊らされ、大義なき戦いを貴殿に挑んでしまった。将軍として、これ以上の恥はない」
ガランの言葉には、先程までの怒りはなく、純粋な武人としての悔恨と誠実さが滲んでいた。
「長老が真実に気づき、動いてくれたことに心から感謝する。そして……シン殿。貴殿は、我ら十万の愚か者を一人も殺すことなく、こうして真実を教えてくれた。その海よりも深き慈悲と、圧倒的な力に……心より謝罪し、感謝の意を表する!」
「「「申し訳ありませんでしたァァァッ!!」」」
ガランに続き、簀巻きにされた十万の獣人たちも一斉に床に額を擦り付けた。
それは、彼らの「真の誇り」が、シンの王としての器に完全に屈服した瞬間だった。
「……顔を上げろ、ガラン将軍。お前たちが純粋に同胞を想って行動したことは分かっている。その裏切り者の処遇は、お前たち連邦の法で厳正に裁いてくれ」
「はっ……! 必ずや」
ガランは立ち上がり、背筋を伸ばしてシンを真っ直ぐに見据えた。
「シン殿。我が軍は完敗した。しかし、我ら獣人連邦は、強き者と気高き魂を何よりも尊ぶ。……厚かましい願いであることは重々承知だが、どうか我ら獣人連邦とも、エルフの同胞たちと同様に『不可侵および相互協力の盟約』を結んではいただけないだろうか」
大将軍からの、対等な国家としての盟約の打診。
シンは傍らに立つガストンやレオンハルトと顔を見合わせ、小さく笑った。
「いいだろう。俺の迷宮は、誇り高き隣人をいつでも歓迎する」
こうして、大深緑の迷い森を巻き込むはずだった大戦争は、一滴の血も流れることなく終結した。
西の帝国、東の聖王国を内側から崩壊させ、南の獣人連邦をその無血の制圧劇で完全なる『同盟国』へと変えたシン。彼の治める『深緑の無名奈落』は、もはや森に潜む未知の脅威ではなく、大陸の勢力図を中心から塗り替える、揺るぎなき『大迷宮国家』としてその名を世界に轟かせるのであった。




