第30話(閑話):歪められた誇りと、獣王軍の咆哮
第30話(閑話):歪められた誇りと、獣王軍の咆哮
大深緑の迷い森の南方に広がる広大なサバンナと岩山。その中心に位置する『獣人連邦ガルド』の首都には、円形闘技場を模した巨大な石造りの『元老院議事堂』がそびえ立っていた。
この日、議事堂の中心には、虎、熊、象、豹など、各部族を束ねる猛者たち――連邦の最高幹部が顔を揃え、重苦しい空気の中で一人の男の帰還を待っていた。
やがて、重い鉄の扉が開き、特命全権大使である獅子の獣人・ボルグがよろめくように入ってきた。
その姿を見た瞬間、幹部たちは息を呑んだ。豪奢な毛皮の外套は無惨に引き裂かれ、ボルグの顔には疲労と(彼自身が演じている)深い絶望が張り付いていたからだ。
「ボルグよ! その無惨な姿はどうした! 迷宮の主との交渉は……同胞たちはどうなったのだ!」
元老院議長である年老いた白熊の獣人が、身を乗り出して問い詰める。
ボルグは議場の中央でガクリと膝をつき、顔を両手で覆って、さも無念そうに声を震わせた。
「……議長。そして各部族の長たる誇り高き同胞たちよ。我が非力をお許しいただきたい。……交渉は、最悪の決裂に終わりました」
「なんだと!?」
「我々は、迷宮の奥深くで囚われた同胞たちの姿を確かに確認しました。しかし……彼らは恐ろしい『精神魔法』によって完全に心を破壊され、あの不浄な魔物の奴隷として、生気を失った廃人のように働かされていたのです……!」
おおおっ、と議場にどよめきが走る。
もちろん、ザイードたちが笑顔で生き生きと暮らしていた事実など、完全に隠蔽した大嘘である。
「私は迷宮の主に、即座の解放を求めました。しかし、あの忌まわしき主は我々の要求を鼻で嗤い……こう言い放ったのです」
ボルグは一度言葉を切り、幹部たちの怒りを最大限に煽るように、声を張り上げた。
「『獣人の誇りなど犬の糞にも劣る。連邦の者どもはすべて、我が迷宮の贄となる家畜に過ぎない』と! そして、使者である私に暴行を加え、森から追い出したのです!」
「――ッ!! おのれぇぇぇッ!!」
バンッ!! という轟音とともに、虎の獣人である大将軍ガランが、分厚い石のテーブルを拳で叩き割った。
彼の全身からは、怒りで黄金の闘気が立ち上っている。他の長たちも同様だった。牙を剥き出しにし、殺気に満ちた咆哮が議事堂を揺るがす。
獣人にとって、「誇りを汚されること」と「同胞を家畜扱いされること」は、何よりも許しがたい最大の禁忌であった。
「待たれよ、ガラン将軍。相手はあの帝国や聖王国を退けたという大迷宮。使者の言葉だけで性急に軍を動かすのは……」
「長老! 同胞が洗脳され、連邦の誇りが泥を塗られているというのに、これ以上何を待つというのだ!」
冷静な判断を下そうとした白熊の議長を、ガランが血走った目で怒鳴りつける。
ボルグもすかさず、涙を流す真似をしながら追従した。
「議長の懸念も分かります。ですが、あの迷宮は今この瞬間も、洗脳した我らの同胞を盾にして防衛線を築いているのです。一刻も早く救い出さねば、彼らの魂は永久に迷宮に縛られてしまいます!」
「……っ。おお、大精霊よ。なんというおぞましき魔物か」
長老もついに目を伏せ、沈痛な面持ちで首を縦に振った。
純粋で、血の気が多く、仲間想いな獣人たち。彼らのその美しき美徳は、自身の裏帳簿を隠滅しようとするボルグの狡猾な扇動によって、完全に「開戦への熱狂」へと塗り替えられてしまったのだ。
「全軍に布告せよ!!」
大将軍ガランが立ち上がり、議事堂の天井に向かって雄叫びを上げた。
「我らが誇り高き獣王軍十万を以て、大深緑の迷い森へ進軍する! 卑劣なる洗脳を解き、同胞を奪還し、我らを愚弄した迷宮の主の首をこの広場に晒してやるのだ!!」
「「「オオォォォォォッ!!!」」」
幹部たちの賛同の咆哮が、雷鳴のように轟いた。
その日のうちに、獣人連邦の首都中に巨大な法螺貝の音が鳴り響き、戦を渇望する十万の獣人戦士たちが、次々と広場へと集結し始めた。
圧倒的な力と、純粋な怒り。その熱狂の渦の中で、ボルグはただ一人、内心で歪んだ笑みを浮かべていた。
(ハハハッ! 馬鹿な奴らめ。どいつもこいつも、血の気が多いばかりの単細胞だ。これであの迷宮は、私の汚職の証拠(裏帳簿)ごと、怒り狂った獣の群れに跡形もなく踏み荒らされる!)
自らの保身のために歪められた真実。
帝国や聖王国の兵とは比べ物にならない、高い身体能力と「誇り」という強固な精神の盾を持った十万の獣王軍が、大深緑の迷い森を焼き尽くすべく、その巨大な牙を剥こうとしていた。




