西の西、そのまた西には何がある? ――知らぬ。だが、迎えは西から来た。
翌朝から、俺はかぐやを質問攻めにした。
当然の成り行きだったと思う。
二世紀のシリアに生まれた作家がギリシア語で書いた法螺話を、数百年、ひょっとしたら千年近くも離れた後の日本で聞かされたのだから。しかも語り手は作者の名すら知らず、母から聞いて、その母も、そのまた母から聞かされたらしいと話す始末だった。
科学者でなくても気になる。
いや、科学者だから、なおさらだった。
「ほかには?」
「何が」
「昨日の話だ。お前の母親から聞いた話」
「ある」
「どんな?」
「いろいろ」
「そのいろいろを聞いてる」
「いろいろはいろいろだ」
会話が会話として成立するようになって間もない、
過去滞在三カ月目。
俺はようやく、この少女が質問に素直に答える人間ではないことを理解し始めていた。
「一つでいい」
「嫌だ」
「なぜ」
「おぬし、昨日からそればかりではないか」
「重要なんだよ」
「わらわには大切ではない」
そう言って、かぐやは干した穀物を籠へ移す作業に戻った。
俺も手伝う。
この時代に来てからというもの、俺の科学者としての専門知識が生活の役に立ったことは驚くほど少ない。
宇宙空間での物質挙動について説明できても、穀物は勝手に籠へ入ってくれない。
月面基地の生命維持系なら設計思想まで理解しているが、竈の火をうまく起こせなければ朝飯にもありつけない。
人類が積み上げてきた知識の大部分は、その知識を支える道具と社会があって初めて力を持つ。
裸の人間一人が千年前へ持っていける文明など、案外少ない。
「では、おぬしが話せ」
かぐやが言った。
「何を」
「月の話」
「昨日しただろ」
「あれはつまらぬ」
俺は手を止めた。
「つまらない?」
「うむ」
「人間が月に町を造って暮らしてるんだぞ」
「鳥はおるか」
「いない」
「豆から人が生まれるか」
「生まれない」
「男が子を産むか」
「少なくとも俺がいた基地では産まない」
「ほら、つまらぬ」
「現実に何を求めてるんだ、お前は」
かぐやが笑った。
昨夜聞かされた言葉を思い出す。
嘘だから面白いのであろう。
ほんとうのことだけを書いて、何が面白い。
俺には到底同意できない。
少なくとも、その頃は。
「じゃあ交換条件にしよう」
「こうかん?」
「俺が一つ話す。お前も一つ話す」
かぐやは俺を疑うように見た。
「おぬしの月の話か」
「嫌なら地球の話でもいい」
「ちきゅう」
「ここだ」
俺は地面を指差した。
「この土地ではない。もっと大きい。海も山も、お前の言う西の、そのまた西も全部まとめて一つの――」
そこまで言って、やめた。
説明が面倒だった。
「大きな丸だ」
ぐるりと手を動かしながら、言った。
「ここが?」
「ああ」
「なぜ落ちぬ」
「そう来るよな」
俺は空を見上げた。
重力をどう説明するか考えた。
質量を持つ物体同士には互いに引き合う作用があり、と始めたところで、質量の説明が必要になる。そもそもニュートン力学を経由するべきなのか、時空の曲率まで持ち出すべきなのか。
三秒ほど考え、諦めた。
「落ちないようになってる」
「なぜ」
「今日はそういう話じゃない」
「知らぬのであろう」
「知ってる」
「では言え」
「説明するのに必要な言葉をお前が知らない」
「言い訳だ」
腹が立つ。
しかし、少し面白かった。
三月前には、互いの名前すらまともに伝えられなかった。
今では喧嘩ができる。
言葉を覚えるというのは、こういうことなのかもしれない。
「分かった。もっと簡単な話にする」
俺は籠を脇へ置いた。
「地球は丸い」
「それは聞いた」
「月も丸い」
「見れば分かる」
「太陽も丸い」
「うむ」
「地球は太陽の周りを回ってる」
かぐやが黙った。
「それから月は地球の周りを回ってる」
まだ黙っている。
「地球は自分でも回ってる。だから昼と夜が――」
「待て」
「何だ」
「いま、ここが動いておると言ったか」
「動いてる」
かぐやは地面を見た。
それから俺を見た。
「動いておらぬ」
「動いてる」
「ならば、なぜ分からぬ」
「一緒に動いてるからだ」
「山も?」
「山も」
「川も?」
「川も」
「家も?」
「家も」
「わらわも?」
「お前も」
「おぬしも?」
「俺も」
かぐやはしばらく考え込んだ。
俺は少し得意になった。
ようやく未来人らしいところを見せられた気がした。
やがて、かぐやが言った。
「嘘だな」
「なぜそうなる」
「面白いから」
「その判定法をやめろ」
笑い声が集落に響いた。
*
約束どおり、その夜、かぐやは別の話をしてくれた。
俺たちは集落から少し離れた場所に座っていた。
昼間の熱を失った地面は冷たく、虫の声が絶え間なく草むらから聞こえてくる。
月はまだ出ていなかった。
「西に、一人の王がおった」
かぐやが言った。
「また西か」
「嫌ならやめる」
「続けてください」
かぐやは満足そうに頷いた。
「その王は、死んだ」
「いきなりだな」
「話の途中で死ぬよりよかろう」
「そういう問題か?」
王は死んだ。
だが、王にはどうしても死にたくない理由があったのだという。
国を失いたくなかったのか。
妻と別れたくなかったのか。
財宝を手放したくなかったのか。
そこは、かぐやも知らなかった。
ただ王は、生きているうちから死なずに済む方法を探させた。
東へ使者を送った。
西へも送った。
山を越えさせ、砂の海を渡らせ、知らない言葉を話す人々の国まで行かせた。
そして、とうとう一人の男が帰ってきた。
男は小さな壺を持っていた。
「中には?」
「薬」
「どんな」
「死なぬ薬」
俺は少し姿勢を正した。
「不老不死?」
「ふろう?」
「年を取らず、死ななくなる薬という意味だ」
「そうだ」
嫌なほど聞き覚えのある題材だった。
もっとも、不老不死の薬など世界中の神話や説話にある。
それだけで竹取物語と結びつけるのは早計だ。
「王は飲んだのか」
「飲まなかった」
「どうして」
「死んでおったから」
俺はかぐやを見た。
「間に合わなかったのか」
「うむ」
「それで?」
「終わり」
「待て」
「何だ」
「薬はどうなった」
「知らぬ」
「使者は?」
「知らぬ」
「王の名前は?」
「知らぬ」
「どこの国だ」
「西」
「どれくらい西」
かぐやがこちらを見る。
俺も見る。
先に笑ったのは、かぐやだった。
「ずうっと西じゃ」
「それで全部済ませる気だろ、お前」
「母も知らぬと言うておった」
「母親は誰から聞いた」
「母の母」
「その人は?」
「そのまた母」
「いつから伝わってる」
「知らぬ」
分からない。
何一つ分からない。
だからこそ面白かった。
物語は物体ではない。
道に落としても痕跡は残らない。土器のように発掘できるわけでも、骨のように年代を測れるわけでもない。
人間の頭から頭へ移る。
言葉が変われば言葉を変え、神の名前が通じなければ別の神になり、知らない土地は知っている土地へ置き換えられる。
そうして何百年も運ばれた末に、最初とは似ても似つかない姿になることだってある。
それでも、何かが残る。
骨格、とでも呼ぶべきものが。
俺は昨夜の月旅行譚を思い返した。
月の王。
太陽の王。
明けの明星を巡る戦争。
奇妙な生物。
男が子を宿す世界。
細部は崩れている。
順序も怪しい。
かぐや自身、全部を覚えているわけではない。
それでも俺にはルキアノスだと分かった。
ならば、この話にも元があるのだろうか。
「ほかには?」
俺が尋ねると、かぐやは呆れた顔をした。
「まだ聞くのか」
「聞く」
「欲深い男だな」
「科学者なんて大体そういうものだ」
「かがくしゃ」
「前に話しただろ。俺がやってた仕事だ」
「月で?」
「月でもやった」
「鳥もおらぬのに?」
「鳥は関係ない」
かぐやは少し考えた。
「では、もう一つだけ」
俺は黙って続きを待った。
「これは母が、一番好きだった話だ」
声の調子が変わった。
俺はそれまで、かぐやの母親についてほとんど何も知らなかった。
聞けば、かぐやは話を逸らした。
父親についても同じだった。
集落の人間に尋ねようとしたこともあるが、俺の言葉がまだ拙かったこともあり、まともな答えは得られなかった。
ただ、一つだけ分かっている。
ここにはいない。
かぐやは夜空を見上げた。
「遠い国に、一人の女がおった」
俺も空を見た。
「その女には、帰りたいところがあった」
「故郷?」
「たぶん」
「たぶん?」
「母も知らぬと言うておった」
女は旅をしていた。
何年も、何年も。
海を渡った。
山を越えた。
砂ばかりの土地を歩いた。
町から町へ、国から国へ。
だが、どれほど歩いても故郷には着かなかった。
「道に迷ったのか」
「違う」
「じゃあ、どうして帰れない」
「帰るところが、もうなかった」
俺はかぐやを見た。
彼女は空を見ていた。
故郷は戦で滅びていた。
家もなかった。
家族もいなかった。
知っている人間も、一人残らずいなくなっていた。
女はそれでも旅を続けた。
「どこへ?」
「東へ」
「なぜ」
「西には帰れぬから」
簡単な答えだった。
簡単すぎて、しばらく何も言えなかった。
「最後はどうなる」
「知らぬ」
「また?」
「母は、そこで話を終えた」
「続きがあったんじゃないのか」
「知らぬ」
かぐやは膝を抱えた。
「いつも、そこで終わった」
風が吹いた。
金色の髪が揺れた。
月はまだ昇っていない。
「お前の母親も、西から来たのか」
初めて、そこまで直接的に聞いた。
かぐやは答えなかった。
聞こえなかったわけではない。
俺の言葉はもう、それくらいには通じる。
「かぐや」
「知らぬ」
「知らない?」
「母は話さなかった」
「じゃあ、その母親――お前の祖母は」
「知らぬ」
「生まれた場所は?」
「知らぬ」
「お前は?」
そこで、かぐやが俺を見た。
「ここだ」
「この集落?」
「違う」
俺は息を止めた。
「どこだ」
かぐやは西を指差した。
「また西か」
「そうだ」
「どれくらい」
いつもの答えが返ってくると思った。
西の、そのまた西。
だから俺は少し笑っていた。
だが、かぐやは笑わなかった。
「覚えておらぬ」
俺も笑うのをやめた。
「何歳でここへ来た」
「幼いころ」
「母親と?」
沈黙。
「一緒だったのか」
かぐやは答えなかった。
代わりに立ち上がった。
「帰る」
「待て」
「眠い」
「かぐや」
呼び止めても、振り返らなかった。
俺は追わなかった。
追ってはいけない気がした。
*
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
理由は分かっていた。
かぐやの母親。
西方から伝わった物語。
金色の髪。
この土地では明らかに異質な容貌。
幼いころに、どこかからここへ来たという本人の記憶。
点は増えていた。
だが、線にはならない。
俺は目を閉じた。
すると別の女の顔が浮かんだ。
二十二世紀に残してきた恋人。
かぐやと同じ顔をした女。
もちろん、似ている人間などいくらでもいる。
世界人口が百億を超えた時代なら、なおさらだ。
まして千年以上離れている。
直系の祖先だと仮定したところで、四十世代近い隔たりがある。その間に存在する祖先の数を単純に倍々で考えることには意味がない。系譜は何度も重複するし、集団も混ざる。
それでも。
似ている。
似すぎている。
額。
目。
鼻。
笑ったときの口元。
考え事をすると、右手の親指で人差し指の爪を触る癖まで。
最後の一つに気づいたとき、俺は身体を起こした。
「……癖?」
遺伝ではない。
少なくとも、そんな単純な話ではない。
俺は暗闇の中で自分の記憶を探った。
恋人もやっていた。
間違いない。
考えているとき。
言いたくないことを聞かれたとき。
少し困ったとき。
右手の親指で、人差し指の爪の端を撫でる。
かぐやもやる。
偶然。
その言葉を頭の中に置いた。
科学において、偶然は敵ではない。
人間は意味のない一致に意味を見つけたがる。二つの事象が似ているからといって、その間に因果関係があるとは限らない。
だから、一致を見つけたときほど慎重になるべきだ。
俺はそう教わった。
そう教えてきた。
偶然だ。
もう一度そう考えた。
そして眠ろうとした。
眠れなかった。
*
翌朝、かぐやはいなくなった。
最初は気にしなかった。
彼女が朝から姿を消すことは珍しくない。
水を汲みに行くこともある。
山へ入ることもある。
竹林で何かを採ってくることもある。
昼になっても戻らなかった。
そこで少し気になった。
夕方になった。
集落の人間たちが騒ぎ始めた。
俺にもようやく、ただの外出ではないと分かった。
老婆が何かを叫んでいた。
男たちが棒や農具を持って集まっている。
俺は覚えたばかりの言葉を繋ぎ合わせ、何が起きたのか尋ねた。
最初は分からなかった。
二度聞いた。
三度聞いた。
ようやく意味を掴んだ。
「人が来た?」
男が頷いた。
「どこから」
男は指差した。
沈みかけた太陽の方角だった。
背中に嫌なものが走った。
「誰だ」
答えは理解できなかった。
知らない単語だった。
俺が聞き返すと、男は苛立ったように同じ言葉を繰り返した。
それでも分からない。
すると老婆が俺の腕を掴んだ。
ひどく強い力だった。
そして、かぐやがよく座っていた場所を指差した。
次に男と同じく、西を指差した。
最後に、自分の髪を掴んだ。
俺は動けなくなった。
老婆は、もう一度言った。
今度はゆっくりと。
その言葉だけは聞き取れた。
「迎え」
だった。
俺も西の空を見た。
夕陽が山の向こうへ沈みかけていた。
この頃の俺は、まだ知らなかった。
後に俺自身が書く物語では、かぐやを迎えに来る者たちは空から現れる。
月から来る。
だが、本当のかぐやを迎えに来た者たちは違った。
彼らは空から降りてなどこなかった。
月から来たのでもなかった。
ここよりも西、この国の都から来た。
月の方からやってきた作者不詳です。二話目もご覧いただき、ありがとうございます。
もしも、このエピソードが面白かったら、感想や星による評価をいただけると、途方もないくらいありがたいです。よろしくお願いいたします。




