風のない月を離れて今いずこ? ――当然に、日本だ。ただし、過去も過去の。
厳密には「転生」ではないのだけれど、実態として大差がないのだから敢えて前世紀初頭風の言い回しで呼ばせてもらおう。
「『転生』したら、俺が竹取物語の作者だった件」と。
これは俺が、俺の痕跡と、かぐやと交わした全ての約束を闇に葬り去るまでの物語だ。
もっとも、最初から竹取物語を書こうと思っていたわけではない。
俺は物書きではなかったし、古典文学を専攻していたわけでもない。二十二世紀の日本で科学者をしていた、ごく普通とは少々言い難いにせよ、少なくとも物語文学の成立史とは何の関係もない男だった。
最後の記憶も、竹林ではない。
月だ。
俺は恋人とともに月にいた。
彼女の母親のものだという骨を火星に撒くため、地球から火星へ向かう航路の中継地である月面基地に滞在し、そこで出発の日を待っていた。
そして、消えた。
少なくとも二十二世紀に残された記録を後から読むことができたなら、おそらくそう書かれていたはずだ。
事故ではない。俺の知る限りでは死んでもいない。まして、生まれ変わった記憶などない。
月面基地にいた俺と、その後この国で目を覚ました俺との間には、肉体的にも記憶の上でも断絶がなかった。
だから転生ではない。
ないのだが、千年以上も昔の世界へ放り込まれ、戸籍も身分も財産も専門資格も、俺が俺であったことを証明してくれる人間さえ一人残らず消滅した状態から人生をやり直す羽目になったのだから、当人の感覚としては似たようなものだった。
しかも、目を覚ました俺を最初に覗き込んでいた少女の名が、かぐやだった。
ここまで揃えば、転生と呼んだところで罰は当たるまい。
ただし一つだけ、あらかじめ断っておかなければならない。
俺が出会ったかぐやは、竹から生まれてはいない。
月から来てもいない。
そして――月へ帰ってもいない。
あれは全部、俺が書いた嘘だ。
「月には、風がない」
そんなことは子供でも知っているし、まして月面基地に半年近く滞在していた人間が忘れるはずもないのだが、それでも俺があの日のことを思い出すたび、最初に蘇ってくるのは風だった。
頬を撫でていく、ひどく弱い風だった。
湿気を含み、草と土の匂いがして、その中に何か甘い花の香りまで混じっていた。二十二世紀の東京では嗅ぐことのなくなった匂いであり、もちろん月では存在するはずもない匂いだった。
だから目を開けるより先に、俺は生命維持系の故障を疑った。
月面基地の居住区には常時わずかな気流がある。酸素濃度と二酸化炭素濃度を均一に保ち、局所的な熱の滞留を防ぐための循環気流だ。それを風と呼べなくもないが、こんなふうに温度も湿度も絶えず揺らぎ、そのたび異なる匂いを運んでくることはない。
それに、背中が痛かった。
硬いものの上に寝ている。ベッドでも床材でもない。右手を動かすと指先が何本もの細いものに触れ、それを一本摘んでみると、乾いた感触とともに小さく折れた。
草だ、と気づいたところで、ようやく目を開けた。
空があった。
視野いっぱいに広がる青を見て、俺はしばらく何も考えられなかった。
月面基地で青いものといえばディスプレイの表示色くらいで、展望区画から見える空はどこまでも黒い。その黒の中に、地球だけが不釣り合いなほど明るく浮かんでいる。半年も暮らせば慣れると思っていたが、最後まで慣れなかった。地球は美しいというより気味が悪かった。手を伸ばせば届きそうな姿をしているくせに、実際には三十八万キロメートルも離れている。
ところが今、その空は青かった。
青いだけではない。白い雲が動いていた。
俺は反射的に呼吸を止め、それから自分がすでに何度も息をしていたことに気づいた。肺に痛みはなく、意識も清明で、皮膚にも異常はない。少なくとも即座に生命を脅かすような大気組成ではないらしい。
ゆっくり上体を起こすと、視界の端を小さな虫が横切った。
そこで俺は、月面基地の事故という可能性を捨てた。
事故で昆虫が湧いてたまるか。
周囲には丈の高い草が茂り、その向こうには竹林が広がっていた。風が吹くたび無数の葉が擦れ合い、ざわざわと波のような音を立てている。遠くには山があり、人工物らしいものは見えない。空には飛行機も航路標識もなく、衛星の反射光を探すにはまだ明るすぎた。
俺は立ち上がろうとして、ひどくふらついた。
重い。
身体そのものが、というより重力が重かった。
その感覚には覚えがあった。月面で長期間生活した人間が地球へ帰還すると、最初の数日は自分の身体を鉛の塊のように感じる。月の重力は地球のおよそ六分の一だから、六十キロの人間なら月では十キロ相当の荷重しか受けない。筋力維持の訓練を続けていたとはいえ、身体は正直だった。
つまり、少なくともここは月ではない。
では地球なのか。
そう考えた瞬間、記憶が戻った。
俺は月にいた。
火星へ行くためだった。
俺一人ではない。彼女と一緒だった。
正確にいえば、火星へ行きたがったのは彼女のほうで、俺はそれに付き合っただけだ。
彼女は母親の骨だというものを火星に撒きたがっていた。
初めて聞いたとき、俺は冗談だと思った。
「散骨なら海でいいだろ」
そう言った俺に、彼女は妙な顔をした。
「海じゃ駄目なの」
「山?」
「火星」
「どうして選択肢が一気に惑星間になるんだよ」
そのとき彼女が何と答えたのか、今ではもう書かないことにしている。
忘れたわけではない。
むしろ、忘れられなかったから書かない。
俺たちは地球を発ち、月面基地で火星行きの船へ乗り継ぐはずだった。骨は小さな容器に収められていた。重量制限の厳しい惑星間航行に死者の骨を持ち込むため、彼女がどれほど面倒な申請をしたかも知っている。
そこまでは、覚えている。
だが、その先がない。
月面基地に着いた。検疫を受けた。居住区に入った。彼女と食事をした。火星航路の出発予定が太陽活動の影響で変更され、俺は管制から送られてきたデータを確認した。
その次が、ない。
そして――いいや、けれどかもしれない――今、俺は竹林の前に立っている。
「……何なんだ、ここ」
声に出してみると、自分の声だけが妙に現実的だった。
端末を探した。
ない。
通信機もない。
腕時計さえなかった。
服だけは着ている。しかし基地内で着ていた衣服ではなく、手触りの粗い布を重ねただけの、少なくとも俺の日常生活とは縁のない代物だった。
誘拐、という単語が浮かんだが、すぐに捨てた。
月面基地から人間一人を拉致して地球へ運び、衣服を着せ替えて竹林に放置する組織が存在するなら、そいつらは犯罪以外にもっと有意義なことができる。
シミュレーション。
可能性としては否定できない。
神経接続型の仮想環境なら、触覚も嗅覚も再現できる。ただし俺が知る限り、これほど完全なものは実用化されていない。何より、風に揺れる竹の葉一枚一枚を無意味に演算する理由がない。
死亡。
これは検証不能なので後回しにした。
科学者というものは死後の世界を信じないわけではない。観測できない仮説を仕事の対象にしないだけだ。
そんなことを考えながら、竹林の縁まで歩いたところで、人の声がした。
女の声だった。
俺は足を止めた。
竹の向こうで何かが動いた。
最初に見えたのは髪だった。
陽光を受けて、それは金色に光った。
俺は思わず目を細めた。
金髪の人間など珍しくもない。二十二世紀なら遺伝的形質と国籍の結びつきは俺の時代よりさらに薄れていたし、日本語を母語にする金髪の人間などいくらでもいた。
だが、竹林の中から現れた少女の顔を見た瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった。
俺は彼女の名前を呼んだ。
少女が止まった。
もう一度呼んだ。
返事はなかった。
少女は十四、五歳くらいに見えた。俺の知っている彼女よりずっと若い。それでも額から鼻梁へ続く線も、少し離れた目も、驚いたときわずかに開く唇も、あまりに似ていた。
頭では別人だと分かっている。
身体のほうが、それを認めなかった。
俺は一歩近づいた。
少女が一歩退いた。
その瞬間、ようやく理解した。
彼女ではない。
俺を見る目が違った。
俺の恋人なら、突然竹林から現れた俺を見てこんな目はしない。少女の瞳にあったのは警戒と恐怖、それから見知らぬものを理解しようとする好奇心だった。
「すまない」
俺は両手を見える位置まで上げた。
「人違いだ」
少女は答えなかった。
いや、何か言った。
聞き取れなかった。
もう一度、今度はゆっくり言う。音韻の一部には覚えがある。日本語に似ているというより、日本語の祖先か親類のように聞こえた。専門外とはいえ、古典教育くらいは受けている。学校で習った古文を実際の音声として再構成したものに近いような、しかし明らかに違うような響きだった。
少女は俺の顔を見ながら、自分の胸元へ手を置いた。
何か言った。
俺は眉を寄せた。
「もう一度」
通じるはずもない要求だったが、少女は察したらしい。
同じ言葉を、今度は一音ずつ区切るように繰り返した。
かぐや。
そう聞こえた。
俺は何も言えなくなった。
さやさやと、竹林が鳴いていた。
金色の髪をした少女がいる。
名前は、かぐや。
俺は竹を見た。
少女を見た。
もう一度竹を見上げた。上から下まで。
正直、馬鹿馬鹿しい連想だと思った。
思ったのだが、日本人として育った以上、その三つを並べて別のものを想像するほうが難しい。
「いやいやいや」
思わず日本語が出た。
少女が驚いた顔をした。
「それはないだろ」
竹取物語。
成立年代は九世紀末から十世紀初頭と推定され、作者不詳。日本最古の物語文学とも呼ばれる作品で、竹から生まれた少女が成長し、求婚者たちへ無理難題を課し、最後には月から迎えが来て帰っていく。
もちろん目の前の少女は竹から出てきていない。
俺が見た限りでは普通に竹林の奥から歩いてきた。
しかも金髪だ。
少なくとも俺の記憶にある『竹取物語』の挿絵では、かぐや姫はこんな髪をしていなかった。
何より、俺は作者不詳の物語へ転がり込むような人生を送ってきた覚えはない。
だから偶然だと考えた。
竹林の近くに、かぐやと聞こえる名前の少女がいた。それだけだ。
その説明がいちばん合理的だった。
少なくとも、その日の夕方までは。
*
少女は俺を集落へ連れていった。
そこで俺は、自分の置かれた状況について一つずつ確認していくことになった。
建築様式。
鉄器。
農具。
衣服。
食物。
人々の発音。
文字の扱われ方。
そして、俺を見る彼らの目。
特に最後のものは重要だった。
彼らは俺を未来人だとは思っていなかった。当然だ。そんな概念がない。
どうやら遠方から来た、素性の知れない男だと思われているらしかった。
一方、かぐやを見る目には別種のものが混じっていた。
畏れだった。
彼女が通ると、子供たちは遠巻きについてきた。大人の中には露骨に目を逸らす者もいた。老婆が一人、俺たちの前で頭を下げ、俺にはまだ理解できない言葉を唱えた。
かぐやは慣れているようだった。
夕陽を受けると、彼女の髪は昼間よりも赤みを帯びて輝いた。
それを指差して、子供の一人が何か叫んだ。
後になって俺は、その言葉の意味を知った。
天女。
彼らは彼女をそう呼んでいた。
しかし、俺には天女には見えなかった。
顔貌だけなら周囲の人々との差は大きくない。髪と瞳の色だけが目立つ。遺伝的な形質が何世代にもわたって残ることは珍しくないし、人間は古代から驚くほど広い範囲を移動していた。彼女自身なのか、両親なのか、さらに前の世代なのかは分からないが、西方に由来する血統が混じっている可能性をまず考えるべきだった。
フィクションを別にすれば、空から降ってきた人間などいない。
月から来た人間もいない。
俺自身が月から来たことを除けば。
その矛盾に気づいて、少し笑った。
かぐやがこちらを見た。
俺は首を振った。
まだ俺たちは、まともに会話することさえできなかった。
それでも不思議なことに、彼女は俺を警戒しなくなっていた。
*
言葉を覚えるのに三月ほどかかった。
日常会話だけならもっと早かった。言語学習には必要性ほど優秀な教師はない。食事が欲しい、眠りたい、そこへ行きたい、それを触るな、腹が痛い。この程度なら数週間でどうにかなる。
問題は、かぐやだった。
彼女は妙な話をたくさん知っていた。
俺がそれに気づいたのは、月の話をしていた夜だった。
かぐやは夜空を見るのが好きだった。
俺にとって月は職場だったので、彼女があれを眺めて飽きない理由が最初は理解できなかった。
「あそこには人がおる」
ある夜、彼女が言った。
俺は聞き間違いかと思った。
「月に?」
「うむ」
「誰から聞いた?」
かぐやは考えてから、母から、と答えた。
俺は黙った。
彼女の母親について、俺はほとんど何も知らなかった。
「どんな人が住んでいる」
「人ばかりではない」
「ほかに何がいる?」
「大きな鳥。豆ほどのものから生まれる人。草でできた翼を持つ者。それから、腹の中に子を入れて育てる男」
最後のところで俺は顔を上げた。
聞き覚えがあった。
いや、そんなはずはないと思った。
「その月の人間は、戦をするか」
「する」
「誰と?」
かぐやは空を指差した。
ただし月ではない。
沈んだ太陽のあった方角だった。
「日の国の王」
背中に冷たいものが走った。
「その話で、月の王と太陽の王は、何を取り合っている」
かぐやは少し困った顔をした。
細部までは知らないらしい。
それでも何度か言葉を探し、俺の知っている語彙に置き換えて説明してくれた。
明けの明星。
そこに人を住まわせる権利を巡って争っているのだという。
間違いなかった。
「誰の話だ、それ」
「知らぬ」
「書いた人間の名は?」
「書く? 知らぬ。母の母が、そのまた母より聞いたという」
「その人はどこから来た」
かぐやは笑った。
「西」
「どれくらい西だ」
「ずっと」
「だから、どれくらい」
「西の、そのまた西」
俺は頭を抱えた。
かぐやには、その反応の意味が分からなかったらしい。
「知っておるのか」
「知ってる」
「この話を?」
「ああ。たぶんお前より詳しい」
今度はかぐやが驚く番だった。
無理もない。
俺だって驚いていた。
ルキアノス。
二世紀、ローマ帝国東部のシリアに生まれ、ギリシア語で書いた作家。
その作品の一つに、途方もない法螺話がある。
船で旅に出た一行が嵐に巻き上げられ、空を飛び、月へ行く。そこで月の王と太陽の王との戦争に巻き込まれる。後世の人間が見れば、途方もなく早い時期に書かれた月旅行譚だった。
俺は学生時代に読んでいる。
そして千年以上前の日本らしき場所で、金色の髪をした少女がその話を知っている。
俺はしばらく月を見上げていた。
かつて俺がいた場所が、白く輝いていた。
「お前、その話を本当だと思ってるのか」
尋ねると、かぐやは妙な顔をした。
それから笑った。
「まさか」
「どうして」
「初めから嘘の話ではないか」
俺は彼女を見た。
かぐやは楽しそうに笑っていた。
「嘘だから面白いのであろう。ほんとうのことだけを書いて、何が面白い」
その言葉を、俺は生涯忘れなかった。
いや。
正確には、忘れなかったからこそ、最後には何もかも書かないことにしたのだ。
俺がどこから来たのか。
彼女がどこから来たのか。
俺たちが何を見つけ、何を恐れ、何を約束したのか。
そして、かぐやという一人の女が確かにこの地上で生きていたことさえ、後世の誰にも確かめられないようにした。
竹から生まれたことにした。
人ならぬ美しさを持っていたことにした。
月から来たことにした。
そして最後には、月へ帰ったことにした。
嘘は大きければ大きいほどいい。
誰も史実だと思わないほど、馬鹿げているほうがいい。
そのやり方を最初に俺へ教えたのが誰だったのかといえば、結局のところ、かぐや本人だった。
もっとも、この夜の俺はそんな未来を知らない。
ただ、失われたはずの古代ギリシアの法螺話のいくつかが、ユーラシア大陸を横断してこの時代の日本へと辿り着いていたという可能性に興奮していた。
そして何より重要なことを、まだ知らなかった。
かぐやが母から受け継いだ西方の物語は、ルキアノスだけではなかったのである。
月の方からやってきた作者不詳と申します。
もしも、このエピソードが面白かったら、感想や星による評価をいただけると、途方もないくらいありがたいです。よろしくお願いいたします。




