第九話 「行っておいで」と、親友が笑ってくれた
翌日の朝。
私は、いつもより少し早く学院へ向かった。
昨日、家族に留学の話をした。
お父様は賛成してくださった。
お兄様も、お母様も。
みんなが私の背中を押してくれた。
それなのに――。
「……本当に、私が外国へ行っていいのかしら」
馬車の中で、何度も考えてしまう。
ルーヴェン公国。
私が一度も訪れたことのない、知らない国。
そこで商人たちと話し、貿易を学ぶ。
考えるだけで胸が高鳴った。
けれど同時に、不安もあった。
「……私にできるのかな」
そのとき。
「お嬢様。学院に到着いたしました」
「え?」
気づけば、馬車は学院の正門前に止まっていた。
「ありがとう」
私は馬車から降りた。
そして、校門をくぐる。
すると――。
「アリーゼ!」
「……ミレーヌ」
昨日と同じ場所で、親友が手を振っていた。
「おはよう!」
「おはようございます」
「あれ? 今日は昨日より元気ね。何か良いことあったの?」
ミレーヌは私の顔を覗き込んだ。
「何かあったでしょう?」
「……どうして?」
「顔に書いてあるもの」
「そんなに分かりやすい?」
「ええ。昨日よりずっと楽しそう」
私は思わず笑った。
「実は……話したいことがあるの」
「やっぱり!」
ミレーヌは嬉しそうに私の腕を引っ張った。
「お昼休みに聞かせて!」
◇
昼休み。
私たちは昨日と同じ中庭のベンチに座っていた。
「それで?」
ミレーヌが身を乗り出す。
「何があったの?」
「……私、ルーヴェン公国へ留学することになったの」
「…………え?」
ミレーヌが固まった。
「留学?」
「ええ」
「外国へ?」
「そう」
「どれくらい?」
「まだ詳しくは決まっていないけれど……」
「待って!」
ミレーヌが両手で頭を抱えた。
「先日まで王太子妃候補だったアリーゼが!」
「うん」
「婚約を解消されたと思ったら!」
「うん」
「今度は外国へ留学!?」
「……そうみたい」
「人生の展開が早すぎるわよ!」
思わず二人で笑った。
「でも……」
笑い終えたミレーヌが、少し真剣な顔になった。
「どうして留学したいと思ったの?」
「貿易を学びたいの」
「貿易?」
「ええ」
私は昨日、エドガルド様から聞いた話を説明した。
公爵領の特産品が、外国では国内より高く売れること。
同じ商品でも、国が変われば価値が変わること。
そして、外国との交易には、まだ私の知らないことがたくさんあること。
「……それでね」
私は胸に手を当てた。
「話を聞いているうちに、もっと知りたいと思ったの」
「もっと?」
「ええ」
「楽しかった?」
「……うん」
その瞬間、自分でも驚くほど素直な声が出た。
「すごく、楽しかった」
ミレーヌはしばらく私を見つめていた。
そして。
「なら、行くべきよ」
「……え?」
「行きなさい、アリーゼ」
迷いのない声だった。
「でも……」
「何を迷っているの?」
「外国なんて初めてだし……」
「怖い?」
「少し」
「私だって怖いわ」
「え?」
「あなたが遠くへ行っちゃうんだもの」
ミレーヌは少し寂しそうに笑った。
「正直に言えば、行かないでほしい」
「……」
「でもね」
彼女は私の手を握った。
「あなたが今まで、どれだけ頑張ってきたか知っているから」
「ミレーヌ……」
「王太子妃になるために、朝から夜まで勉強して」
「……」
「学院に来られない日も増えて」
「……うん」
「それでも一度も弱音を吐かなかった」
私は俯いた。
弱音を吐かなかったのではない。
吐けなかっただけだ。
王太子妃になるのだから。
それくらいできなくてはいけない。
そう思っていた。
「だから」
ミレーヌは笑った。
「今度は、自分のために頑張ってみたらいいじゃない」
「……!」
胸の奥が熱くなる。
「あなたがやりたいと思ったことなら、私は応援するわ」
「……ありがとう」
「ただし!」
ミレーヌが人差し指を立てる。
「外国で素敵な友達を作っても、私のことを忘れないこと!」
「ふふっ」
「笑い事じゃないわよ!」
「分かっているわ」
私はミレーヌの手を握り返した。
「絶対に忘れない」
「約束よ」
「約束」
私たちは小指を絡めた。
「アリーゼ」
「なに?」
「あなた、王太子妃になれなくてよかったのかもしれないわね」
「……え?」
「だって、今のあなたのほうがずっと楽しそうだもの」
◇
放課後。
私は教室に残っていた。
机の上には、一枚の紙。
そこには、これからルーヴェン公国で学びたいことを書き出していた。
『外国語』
『貿易の仕組み』
『外国の市場』
「いつか、自分で商談をしてみたい」
書けば書くほど、知りたいことが増えていく。
「……こんなに、勉強したいことがあるなんて」
私は小さく笑った。
今までの勉強は、義務だった。
けれど今は違う。
私は、自分から学びたいと思っている。
――あなた自身のために。
昨日、エドガルド様がそう言ってくれた。
その言葉が、今も胸に残っている。
不思議だった。
王太子だったランスロット殿下からは、そんな言葉を一度も聞いたことがなかったのに。
「アリーゼ」
ミレーヌが教室の扉から顔を出した。
「帰らないの?」
「もう少しだけ」
「また勉強?」
「うん。でも、今度は楽しいの」
「それならいいわね」
ミレーヌが笑う。
「じゃあ、帰りましょう」
「ええ」
私は紙を丁寧に畳んだ。
そして鞄にしまった。
◇
その夜。
公爵家の食卓には、いつもより多くの料理が並んでいた。
「今日は留学について、もう一度話しておこう」
父が言った。
「はい」
「まず、向こうで暮らす場所だが――」
父はすでにいくつか候補を調べていた。
「ルーヴェン公国の大使館を通じて、信頼できる家を紹介してもらうつもりだ」
「ありがとうございます、お父様」
「それから、護衛も必要だ」
「護衛……」
兄が口を挟む。
「当然だろう。外国へ行くんだから」
「でも、私一人で行くわけではありません」
「それでもだ」
兄は少し心配そうな顔をした。
「何かあってからでは遅い」
「お兄様……」
「妹を心配して何が悪い?」
私は思わず笑った。
「ふふっ」
「何がおかしい?」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「嬉しいんです」
「……」
「みんなが私のことを心配してくれているのが」
父が優しく笑った。
「当たり前だ」
母も頷く。
「あなたは私たちの大切な娘ですもの」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
私はずっと。
王太子妃になることばかり考えていた。
王家に認められなければ。
殿下に必要とされなければ。
私は価値のない人間なのだと思っていた。
でも――。
違った。
ここには、私が何者であっても愛してくれる人たちがいる。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
「私、頑張ってきます」
◇
同じ頃。
王太子宮。
「殿下。この書類ですが、確認をお願いできますか」
「……アリーゼに任せればいい」
「……アリーゼ嬢は、もう王太子宮には来ません」
「……そうだったな」
これまでなら、すぐに問題点を指摘してくれた。
自分が気にも留めなかった仕事の多くを、彼女が処理していたのだと気づく。
「……この契約、誰が確認した?」
「まだです」
「なぜだ?」
「いつもはアリーゼ嬢が確認していましたので」
「では、いつまでかかる?」
「……明日までには」
「……」
「また、ルーヴェン公国から書簡です」
「……またか」
ランスロットは眉をひそめた。
「今度は何だ?」
「アリーゼ嬢の留学についてです」
「留学……」
ランスロットの手が止まった。
「彼女は、本当にルーヴェンへ行くのか?」
「その予定だそうです」
「なぜだ?」
「貿易を学ぶためだと」
「貿易……?」
ランスロットには理解できなかった。
アリーゼが、そんなものに興味を持つとは思っていなかった。
「彼女は王太子妃になるために必要な教育を受けていたはずだ」
レオポルドが静かに答える。
「その教育の中には、商業や外国語も含まれていました」
「……」
「つまり、彼女は以前から知識を持っていたということです」
ランスロットは黙り込んだ。
そして、机の上に積まれた書類を見る。
昨日までなら。
アリーゼがいた。
書類を確認し。
問題を指摘し。
必要な資料まで用意してくれた。
今は――。
「……なぜ、彼女はそんなことを?」
ランスロットが呟く。
レオポルドは答えなかった。
その代わり、手元の報告書を見つめる。
そこには、新しい情報が記されていた。
『ルーヴェン公国は、アリーゼ=アントワープ公爵令嬢を貿易顧問候補として高く評価している』
レオポルドの目が細くなる。
「……これは、少々まずいですね」
「何がだ?」
「アリーゼ嬢が、王国の外で評価され始めています」
ランスロットは顔を上げた。
「……」
その言葉の意味を、まだ理解できなかった。
「もし彼女がルーヴェン公国で実績を上げれば……」
「……?」
「いずれ、ベルガリア王国にとっても無視できない存在になります」
「それが何だ?」
「そのときになって、彼女を『無能な令嬢』と評価したことが間違いだったと知る者が出てくるでしょう」
◇
その翌朝。
私は鏡の前で髪を整えていた。
もうすぐ、外国へ行く。
知らない国。
知らない文化。
知らない商人。
不安はある。
それでも――。
「楽しみだわ」
私は笑った。
王太子妃になるためではない。
誰かに認めてもらうためでもない。
私は、自分がやりたいと思ったから行く。
そして。
いつか。
自分の力で、公爵領の商品を外国へ売ってみたい。
「待っていてね、ルーヴェン公国」
私はまだ知らなかった。
そこで出会う人が――
私の人生を、もう一度大きく変えることになるなんて。




