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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第八話 王太子妃ではなくなった私に、新しい夢ができました



 婚約を解消された翌日の夕方。

 私は、公爵家の応接室にいた。


「アリーゼ様がお見えになりました」


 侍女の声とともに、扉が開く。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、昨日の外交面談で一緒だった男性だった。


「エドガルド様……?」

「お久しぶりです、アリーゼ嬢」


 ルーヴェン公国のエドガルド公爵令息。

 青い髪に、深い紫色の瞳。

 昨日と変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。


「今日は、どうしてこちらへ?」

「昨日の交渉について、少しお話ししたいことがありまして」

「昨日の……」


 私は背筋を伸ばした。


「契約についてでしたら、私より王太子殿下に――」

「いいえ」


 エドガルド様は静かに首を横に振った。


「あなたとお話ししたいのです」

「私と……?」

「はい」


 その言葉が、少し不思議だった。

 私はもう王太子妃候補ではない。


 王宮で仕事をする理由もない。

 それなのに、どうして私なのだろう。


「実は先日の契約について、商会長から報告を受けました」

「……何か問題がありましたか?」

「逆です」


 エドガルド様は微笑んだ。


「あなたが指摘された部分を確認したところ、確かに契約条件を見直す必要がありました」

「そうだったのですね」


「はい。おかげで、双方にとってより良い契約にできそうです」

「それなら、よかったです」


 私はほっと息を吐いた。


 すると、エドガルド様が私をじっと見つめた。


「アリーゼ嬢」

「はい?」


「あなたは、自分が仕事ができないと思っていますか?」

「……え?」


 突然の質問に、言葉が詰まった。


「どうして、そんなことを?」

「先日、あなたが何度も『時間がかかってしまった』と気にされていたので」

「それは……」


 私は目を伏せた。


「実際、私は判断が遅いのです」

「違います」


 即座に否定された。


「え?」

「仕事が遅いことと、仕事ができないことは同じではありません」


 前にも聞いた言葉だった。


 けれど今日は、その言葉が少し違って聞こえた。


「先日のあなたは、契約書を最初から最後まで丁寧に確認した」

「……」


「一つ目の問題を見つけても、それだけで判断しなかった」

「はい」

「別の条項との関係まで確認し、三年後に起こる可能性のある問題まで指摘した」


 エドガルド様は微笑んだ。


「私は、あなたのような人間を『仕事が遅い』とは思いません」

「では……?」

「慎重で、優秀な人だと思っています」


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。

 私は今まで、誰かにそんなふうに言ってもらったことがあっただろうか。

 思い出せない。


「ありがとうございます」


 小さく頭を下げる。


「でも……私は、王太子妃にはなれませんでした」

「それが、何か?」

「……え?」


 顔を上げる。

 エドガルド様は、穏やかな表情をしていた。


「私は、あなたを王太子妃だから評価しているわけではありません」

「……」

「アリーゼ=アントワープという、一人の女性として評価しています」


 その言葉に、胸が震えた。

 王太子妃になるために。

 私はずっと努力してきた。


 外国語も。

 王国法も。

 外交も。

 礼儀作法も。

 商業についての勉強も。


 全部、未来の王太子妃になるためだと思っていた。

 けれど――。


「ところで、アリーゼ嬢」

「はい?」


「先日の契約書を見ていて、気になったことはありませんでしたか?」

「気になったこと……?」

「はい」


 エドガルド様は、持ってきた一枚の書類を机の上に置いた。


「こちらです」


 そこには、ルーヴェン公国とベルガリア王国の交易品について書かれていた。


「これは……公爵領の小麦?」

「はい」


「どうして、ルーヴェン公国が?」

「実は、以前から欲しいと思っていたのです」


「小麦を?」

「正確には、あなたの公爵領で作られている小麦です」


 私は目を瞬いた。


「ですが、特別なものではありません」

「それは、ベルガリア王国の中での話です」

「……?」


 エドガルド様は一枚の表を差し出した。


「こちらをご覧ください」


 国内での販売価格。

 そして、ルーヴェン公国での予想販売価格。


「…………」


 私は数字を見つめた。


「こちらは……」

「はい」


 エドガルド様が答える。


「ルーヴェン公国なら、現在の国内価格のおよそ二倍で売れる可能性があります」

「二倍……?」


 思わず聞き返してしまった。


「どうしてですか?」

「ルーヴェン公国では、小麦の生産量が少ないからです」


「でも、輸送費がかかります」

「それを含めても利益が出ます」


「関税は?」

「それも計算済みです」


「為替の変動は?」

「それも考慮します」

「では……」


 私は書類を覗き込んだ。


「公爵領で生産した小麦を、ルーヴェン公国へ運んで売れば……」

「国内で売るより、利益が大きくなる可能性があります」

「……」


 胸が高鳴った。

 今まで、こんなことを考えたことはなかった。


 王妃になる視点から、商品の市場を国内のみと考えていた。

 けれど。


 国が変われば。

 需要が変われば。

 同じ商品でも価値が変わる。


「……面白いですわ」


 思わず声が漏れた。


「え?」

「いえ……」


 私は慌てて口元を押さえた。

 でも、止まらなかった。


「では、小麦以外にも同じことが?」

「もちろんです」


「果物は?」

「種類によります」


「織物は?」

「ルーヴェンでは高級品として人気があります」


「では、魔導具の部品は?」

「それも需要があります」


 次々と質問が浮かんでくる。

 エドガルド様は、そんな私を見ながら楽しそうに笑っていた。


「アリーゼ嬢」

「はい?」


「やはり、あなたは商売が好きなのですね」

「え?」


「先ほどから、目が輝いています」

「……」


 私は自分の顔に触れた。

 頬が少し熱い。


「私……」


 こんなに楽しいと思ったことがあっただろうか。

 王妃教育では、失敗しないことばかり考えていた。


 間違えないように。

 王太子殿下に迷惑をかけないように。

 けれど今は違う。


「もっと知りたいです」


 自然と、その言葉が出てきた。


「貿易について」

「……」


「外国では、どんな商品が求められているのか」

「はい」


「どうすれば利益が出るのか」

「はい」

「商人の方々は、どんなふうに交渉するのか」


 エドガルド様は微笑んだ。


「それなら――」


 少し間を置いてから。


「ルーヴェン公国へ来ませんか?」

「……え?」

「留学です」


 私は目を見開いた。


「留学……?」

「はい」


「私が?」

「あなたなら、学ぶことができます」


「でも、私はもう王太子妃ではありません」

「だからこそです」


 エドガルド様は静かに言った。


「あなたは、今なら自由に進む道を選べます」

「……」

「王太子妃になるためではなく」


 彼は優しく微笑んだ。


「あなた自身のために」

「……」


 私は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 王太子妃になるために、誰かに決められた道を歩いてきた。

 

 でも――ルーヴェンへ行くことだけは違う。

 これは、私が初めて自分で選ぶ道なのだ。


「……行ってみたいです」


 私は、初めて自分の意思で答えた。


 ◇


 その日の夜。


「お父様」


 私は父の執務室を訪ねた。


「どうした、アリーゼ、真剣な顔をして?」

「お願いがあります」

「わかった。言ってみなさい」


 私は一度深呼吸した。


「私……ルーヴェン公国へ留学したいのです」

「…………」


 父が目を丸くした。


「留学?」

「はい」


 私は今日の出来事をすべて話した。

 公爵領の特産品。

 外国では国内より高く売れること。


 そして、貿易についてもっと学びたいと思ったこと。

 父は黙って聞いていた。


「……勝手なことを言っていると思います」

「どうして?」

「王太子妃にもなれなかったのに、今度は外国へ行きたいなんて……」


 言葉にした瞬間。

 胸が痛くなった。

 すると。


「アリーゼ」


 父の声は優しかった。


「お前は、まだそんなことを言っているのかい?」

「……え?」

「王太子妃になれなかった?」


 父はゆっくり立ち上がった。


「それがどうした」

「お父様……」

「お前は王太子妃になるためだけに生きているのではない」


 父は私の頭に、そっと手を置いた。


「お前の人生は、お前自身のものだ」

「……」

「やりたいことが見つかったのなら、私は応援する」


 胸の奥が熱くなった。


「本当に……?」

「ああ」


 そこへ。


「お父様、アリーゼに何を言ったのです?」


 兄が部屋へ入ってきた。


「あ、お兄様」

「留学するんだって?」


「聞いていたの?」

「廊下まで聞こえた」


 兄は笑った。


「いいじゃないか」

「え?」


「外国で貿易を学ぶんだろう?」

「でも……」

「公爵家の娘が外国の商人と話せるようになれば、領地にとっても大きな財産になる」


 兄は私の肩を軽く叩いた。


「むしろ、どうして今まで思いつかなかったんだ?」

「お兄様……」

「それに」


 兄は笑った。


「帰ってきたら、俺にも外国の話を聞かせてくれ」

「もちろんですわ!」


 思わず笑ってしまった。

 そこへ母も入ってきた。


「まあ。ずいぶん楽しそうね」

「お母様」


「留学の話でしょう?」

「はい」


 母は私の手を取った。


「あなたが決めたのなら、行ってきなさい」

「……外国は怖くないでしょうか?」


「怖いわよ」

「え?」


 母は微笑んだ。


「知らない国へ行くのですもの。怖くないほうがおかしいわ」

「……」

「でもね」


 母は私の手をぎゅっと握った。


「怖くても、やってみたいと思えることがあるのなら、それは大切にしなさい」


 私は唇を噛んだ。

 涙が出そうになる。


「お母様……」

「あなたが王太子妃になるために頑張っていた姿を、私たちはずっと見ていたわ」


「……はい」

「だから今度は――」


 母は優しく微笑んだ。


「あなた自身の夢のために頑張りなさい」

「……っ」


 涙が頬を伝った。


「はい……!」


 私は家族の顔を見渡した。

 父も。

 母も。

 兄も。

 誰一人、私を責めなかった。


 王太子妃になれなかったことを。

 婚約を解消されたことを。

 誰も。

 ただ。


「行っておいで」


 父が力強く頷いた。


「楽しんでこい」


 兄が笑った。


「体には気をつけるのよ」


 母が優しく抱きしめてくれた。


「……ありがとうございます」


 私は泣きながら笑った。


 ◇


 数日後。

 私の部屋には、二冊の本が置かれていた。


 一冊は、王太子妃教育で使っていた本。

 もう一冊は――。


『ルーヴェン公国の貿易と商業』


 私は二冊を見つめた。

 以前なら、迷わず前者を手に取っていただろう。


 けれど。

 今の私は違う。

 私はゆっくりと、後者を手に取った。


「……貿易」


 知らないことばかりだ。

 だからこそ。


「もっと知りたい」


 胸が、わくわくしている。

 王太子妃になれなかった。


 だから私は、何もなくなったと思っていた。

 でも――。

 違った。


 王太子妃という道がなくなったからこそ。

 今まで見えなかった道が、目の前に現れたのだ。


「私……ドキドキしているわ」


 ルーヴェン公国へ。

 そして。


 外国の商人たちと話して。

 外国語を使って。


 自分の力で、商品を売ってみたい。

 それが成功するかどうかは、まだ分からない。


 けれど。

 初めてだった。


 誰かのためではなく。

 王太子妃になるためでもなく。

 自分自身がやってみたいと思ったこと。


「楽しみだわ」


 窓の外を見る。

 広い空が、どこまでも続いていた。


 その向こうには、まだ見たことのない国がある。

 ルーヴェン公国へ。

 私は、初めて自分自身のために歩き出す。

 

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